街に着いたら市場と本屋・本屋編

市場と本屋。どこに出かけても、時間があればこの二つは必ず覗きます。いえ、時間がなくても、観光名所のひとつやふたつ、三つや四つはとばしても、本屋と市場には行かずにいられません。二つの場所の賑わいは、その場所の日常生活の活力のバロメーターでしょうし、そこに並ぶ品々には、風土と歴史と文化についての情報がぎゅうっと詰まっています。

さて今日お届けするのは、ロンドンでももっとも人通りの多い場所のひとつ、ピカデリー・サーカス(Picadilly Circus)からすぐのところにある、大手書店Waterstones'のウィンドウの写真です。ここは現在、ヨーロッパ最大の書店、夜9時まで開いていて、本好きには嬉しい場所。6月から8月にかけて、歩いて15分ほどのコヴェント・ガーデン(Covent Garden)に住んでいたので、人混みをかき分けかき分け、夕方の散歩がてら、この本屋にはよく出かけました。本を買っても買わなくても、ウィンドウを眺め、いくつかのフロアーをめぐって、ああ、これも読みたい、あれも読みたい、でも一日は24時間、起きているのは16時間、仕事もあるし、慣れない場所での生活は生活するのが仕事みたいなものでなにかと時間をとられるし、ああ、でもでも、おもしろそうなものがこんなにある、と幸せな消化不良とともに店を後にし、頭を冷やすため、時には遠回りして、セント・ジェームズ公園のほうに降り、北国の夏のいつまでも暮れない青い夕刻、芝生で一休み、トラファルガー広場を抜ける30分コースでフラットに戻ったものでした。(セントラル・ロンドンのvirtual散歩のためには、下の地図をクリックして拡大してみてください。)


まあ、そんな個人的な思い出バナシはさておいて、今ロンドンでどんな本が今読まれているのかを映す本屋のウィンドウを覗いてみましょう。この6冊、それぞれにジャンルも書かれた時期も異なりますが、共通項が一つあります。それは書き手がいわゆる「生粋の英国人」ではないということ。英語圏メトロポリスの文化の一側面をよく表しているな、と感じました。(なかで唯一英国生まれの英国人だと思われる、ストリート・アーティストのバンクシーはーー右上が作品集ーー覆面作家でプロフィールを明らかにしていません。)


この6冊のなかの気に入りの2冊について、簡単に解説を。左下、切なさときびしさのまじった瞳の男性が表紙からみつめているのは、わたしの大好きな作家、Sam Selvon(サム・セルヴォン)のThe Lonely Londoners (1956)。Seolvnはカリブ海のトリニダードのキリスト教を信仰するインド系の家庭に生まれ、1950年、27才で英国に移住しました。なぜカリブ海にインド人?インド家庭なのにキリスト教?不思議に思った方は、ちょっと調べてみてください。15世紀末、コロンブスによる「発見」によって、旧世界と新世界が出会った場所、カリブ海地域の複雑な歴史がわかるはずです。さて、第二次世界大戦後、そのカリブ海の英国植民地からは、宗主国の戦後復興の労働力として、1948年から62年までの閒に25万という人々が海を渡りました。Selvonもその移民の波の中にいた一人です。小説が生まれたのはもちろんロンドン。かつては憧れの地だった場所、でも来てみれば寒い暗い孤独な北の大都会で、差別に晒されながらも、たくましく日々をしのいでいくカリブ移民たちの姿を、哀しみまじりのユーモアとともに描いています。時に美しく煌くけれど、日常はくそったれな灰色の街への幻滅と、それでも消えない愛着とが、じわっと伝わってきます。半世紀以上も前にここで書かれた小説が今も版を重ね、読み続けられているのはなぜなのか、誰がいまこのストーリーの登場人物に自分の姿を重ねているのか、興味深く思います。ちなみにSelvon自身は、73年には再びの移住、カナダへと移っています。


もう一冊は左上、現在ロンドン市内に4店舗を持つ人気レストラン、OttolenghiのSami TamimiとYotam Ottolenghiの二人によるレシピ本。インテリアコーディネーターをしている若い英国人の家にお茶に呼ばれて、Ottolenghiのケーキをはじめて食べたときには、ちょっとびっくりしました。東京やパリでも通用しそうなケーキが、食の後進地だった英国でも手軽に手にはいるようになったとは!これまでの店売りのケーキと圧倒的に違うのは、軽みと、自然な、しかしくっきりとしたフレーバー。「どこで買ったの?」と聞くと、「お客さんのときにはここで買うんだ。オーナーシェフの名字がそのまま店名みたいだけど」とレシートを見せてくれました。Ottolenghiという名前に、やっぱり英国以外のルーツをもつ人だな、とその時思ったのを覚えています。(写真は友人宅でのお茶のテーブル)


どういう人たちなのだろう、と、今回、この記事のために調べてみたら、TamimiとOttolenghiの二人はともに現在はイスラエルと呼ばれる場所の出身です。「現在イスラエルと呼ばれる」と面倒な表現をした理由は説明するまでもないでしょう。OttolinghiのHPの紹介によれば、Tamimiは東エルサレムのアラブ地域で育ち、両親がパレスチナの伝統的な料理を丁寧に熱心に作るのをいつも見ていたそうです。東エルサレムは48年にアラブ=イスラエル戦争でヨルダン領となり、67年にイスラエルが六日戦争と言われる戦争で領土としたアラブ系の人々が住む場所です。そして、店のpatron chefで、英国の日刊紙The Guardian(『ガーディアン』)で野菜料理の頁も持っているOttolenghiのほうは、母がドイツ人、父がイタリア人の、エルサレム生まれ。文学と哲学の修士号をとり、日刊紙Haaretz(『ハーレツ』)で働いた後、料理の世界に転身しました。ちなみにかつて働いていたHaaretzは、イスラエルメディアの中では、ガザ占領やウェスト・バンクへの入植にもっとも批判的なスタンスをとり、知識層に読まれている新聞として知られています。興味深い人生の軌跡をもつ二人が、90年代後半にロンドンでチームを組みスタートさせたのが、この料理店なのです。(写真は本の写真の拡大版)

Ottolinghiの二人がなぜロンドンを仕事の場に選んだのか、そこまでは今のわたしにはわからないけれど、もう何百年も、この北のメトロポリスが様々な事情で故郷を離れた人々にとっての「避難都市」の役割を果たしてきたのは事実です。マルクスもフロイトも、ここで晩年を送り亡くなりました。ハイゲイト墓地(Highgate)のマルクスの墓には、例の有名な一節、'WORKERS OF ALL LANDS UNITE'(万国の労働者たち、団結しよう)に続いて、'THE PHILOSOPHERS HAVE ONLY INTERPRETED THE WORLD IN VARIOUS WAYS - THE POINT HOWEVER IS TO CHANGE IT.'(哲学者は様々に世界を読みといてきた。けれど大事なのは世界を変えること。)と刻まれています。マルクスが亡くなってから125年、2008年の夏、資本と欲の暴走の結果、合衆国で1929年の大恐慌以来の金融危機が起き、それに端を発する世界不況はいまも続いています。日本でも、派遣労働者の厳しい生活状況などが問題となっていますが、現在欧州のあちこちでは、悪化する労働状況と生活の苦しさを訴える労働者たちの抗議行動が頻発しています。そして、UKでは、日本でも報道されているように、このブログの前回の記事でも少し触れたように、学費値上げと一連の財政支出削減に抗議する学生たちの行動が本格化してきています。大学へ補助金カットと学費値上げが議会に出されるまでの、これから二週間ほど、この行動によって何らかの変化がもたらされるのかどうか、目が離せません。今回もタイトルからずいぶん遠いところまで散歩してしまいましたが、ふたつのゴハン、食べものと読み物から始めた話は、どこにでもつながっていくようです。それではまた。

 

どこでもゴハン、ふたつのゴハンaka Greetings from London 


こんにちわ。日本ではもう「こんばんわ」の時間ですね。ロンドンからはじめての投稿です。今年の3月末から一年間のサバティカルで、草枕の日々を愉しませてもらっています。 この半年、ロンドン市内、UK国内、そして欧州内、と大小の移動を繰り返し、住む場所も、耳に聞こえる言葉もずいぶん様々に変わりました。いくつかの仮の住まいと旅先を、トランクひとつで、行ったり来たり。変化の多い、そしてモノの少ない暮らしを続けきて、いま実感しているのは、この体がどこにあっても、ふたつのゴハンが生活の基本だという、とてもとてもシンプルなことです。

ふたつのゴハンとは、体のための食べ物と、頭とこころのための食べ物である本、Food & Food for Thought。後者については、大学では英語圏の文学と文化を担当していますから、仕事とも直結。この放浪の日々、仕事を再開する来年の春への充電期間でもあるようです。帰国はもう少し先のことですが、まずはそれまでの間、二つのゴハンを糸口とする徒然バナシを中心に、時々便りを送ります。違う風土や文化のもとでの暮らしの様子を伝えられればいいな、と思っています。12月にはまた少し旅をし、1月末にはカリブ海のジャマイカ、キングストンに拠点を移す予定。その時には、ここロンドンとはずいぶん違う空気のなかでの話をお届けできることでしょう。


そうそう、二つのゴハンといえば、ここUKでは食品と本は消費税の課税の対象外になっているのをご存じでしょうか。現在、VAT(Value Added Tax=付加価値税)というUKの消費税は17.5%。日本に比べると、とんでもなく高率ですが、体と頭のための滋養は、人が暮らし、次の世代が育っていくのに最低限必要なものと見なされ、課税から守られています。(もうひとつ、子供服にもVATはかかりません。)そもそも日本の消費税は世界のなかでもきわめて低率。消費税値上げ反対と、反射的に思う前に、何にどのように課税され、また税金がどのように使われるのかをよく考えてみないといけないのでしょう。(図は消費税の国際比較。画像をクリックすると大きくなりますので、数字見てみてください。)


それではUKが、パンのみでは生きてはいけないニンゲンという動物が暮らしやすい賢い社会かというと、そんなに理想的ではないのが現実。ご存じのとおり、今年5月に誕生した連立政権は、欧州最悪の財政赤字に取り組むために、未曾有の歳出削減計画を打ち出しています。一連の削減計画、反対派からは「無謀」、「残酷」、「戦後最大のギャンブル」と評され、消費税は来年1月には20%に。そんななかでも、二つのゴハンと子供服は課税から守られるようですが、大幅な歳出削減は市民生活のあらゆるところに影響を及ぼします。教育分野も例外でなく、大学の学費は最大現在のほぼ3倍になると見込まれています。11月11日には、ロンドンでの抗議デモに5万人の学生が集まりました。一部の学生たちが保守党本部のガラスを割って内部に乱入し、保守党本部の機能がマヒするという一幕もありました。明日24日には、二回目が予定されており、ロンドンの様々な大学の学生が授業をボイコットして、ウェストミンスターまでデモを行うそうです。わたしがここの学生だったら、間違いなく、今頃は明日のためのTシャツや看板作りに精出しているでしょう。


いきなり税金や抗議デモのハナシになってしまいましたが、さて、こちらはそろそろお昼。少しお腹がすいてきました。中華街で買ってきたヌードルでも作りましょう。と、冷蔵庫を開けたらちょっと匂います。消臭剤がいるみたい。'fridge freshener'とでもいうのかしら?(と、調べてみたらOKのよう)日常品の英単語、これがけっこう苦労します。あまりに日常的な単語であるだけに、ちょっと表現が違うと相手が一瞬とまどうのです。一昨日も、寝室用の整理箱が欲しくて、インテリアショップで「baskets and boxes for storageはどこ?」と聞いたら、お洒落な店員さん、一瞬、ぽかんとして、「おおstorage boxのことね。Lost in translationだわ!ごめんなさい。東京行きたいな」と笑っていました。Lost in Translation.ソフィア・コッポラ監督の東京を舞台にした映画です。7、8年前の作品だったでしょうか。英語圏のちょっとクールを自認する20代、30代にはいまだに人気があるようです。あの映画の中、新宿の街で、登場人物たち何食べていたかなあ、と思い出しながら、そして明日の大学構内はどんなだろう、と思いながら、今日はこのへんで。Cheers

 

「ホスピタリティを仕事に」


さる10月27日、連続講演会「仕事と暮らしのつくり方」第四回が開催されましたので、その模様をレポートしたいと思います。第四回は、第一ホテル両国の社長をなさっておいでの中田徹男さんに、ホテル業の魅力をたっぷり語っていただきました。

中田さんは本学ドイツ語学科の四期生なので、私たちの大先輩にあたります。在学中からホテル研究会を立ち上げ、ホテルの世界を知ろうと積極的だった中田さんですが、仲間と実習にと出かけて行った老舗ホテルで、あるショッキングな体験をしました。そのホテルで中田さんたちにあてがわれた仕事は「ランドリー」、つまり洗濯物を延々と洗いつづけるだけの仕事。しかもガレージ脇の裸電球一本の部屋での寝起き。

つらい思いをした中田さんは、「いつかは自分が総支配人になってやる!」と夢を抱きます。本学卒業後に第一ホテルに入社、ベルボーイやフロントなどのさまざまな職務を経験したうえで、2000年、第一ホテル両国の総支配人となって夢を実現させました。

ホテルの総支配人とはいわば現場の総監督のこと。おもてなし(=ホスピタリティ)の現場が大好きな中田さんだけあって、ホテルのサービスについて語るときにはとくに熱がこもります。中田さんによれば、ホテルのサービスとは、人が人にしてさしあげる「人的サービス」のこと。そのサービスに笑顔と言葉づかいと挨拶はもちろん必要ですが、それに加えて、お客様一人ひとり異なるニーズを察知したうえで、ニーズにぴったり見合ったサービスをさりげなく提供しなくてはなりません。そのためには絶えずアンテナを張り、勘を磨き、お客様の言葉から改善点を見つける努力が欠かせません。

学生時代の夢を実現させた中田さん。しばらく総支配人と社長の仕事を兼任していらっしゃいましたが、今年5月からは社長として経営一本に専念しておいでです。「これからの目標は?」との質問には、「人材を充実させたい。志の高い人を採りたいし、社員の能力をあげたい」とのこと。「採用する側は幹部候補生を採りたいんです。これからは男も女も関係ありません。面接では、仕事が好きだとアピールできることはもちろん、自分の目標をしっかり示してほしい」との明確なお言葉に、インタビュアーの2人もフロアーの聴衆も、深く頷いていました。

 

「猛暑襲来」が終わって秋が到来・・・

10月になりました。すごしやすい季節の到来です!夏休みが終わり、大学にはいつもの活気が戻ってきました。受験生は、これから本番に向けたラスト・スパートをかけはじめる季節でしょうか。なかには「ねじりハチマキ」で気合いを入れる受験生もいるようで、「合格」なんて文言が入っていたりします。「神風」入りのハチマキもありますが、ちょっと受験期には馴染まないかもしれませんね。

そういえば先日、その「神風」が吹いたとされる土地に行ってきました。福岡です。博多湾沿いにある西南学院大学からの依頼で、集中講義を1週間やってまいりました。1学期分の授業を1週間に詰め込んで行なう、密度の濃いものでした。(授業内容は「ポピュラー・カルチャー研究」というもので、英語で書かれた文献を少人数の受講生らと検討しあうゼミナール形式のものでした。)

さて、この大学の1号館には「元寇防塁」を展示したコーナーがあります。「元寇」というのは、チンギス・ハンが統一した元(モンゴル帝国)が1274年と1281年の2度にわたって日本に遠征軍を送った出来事ですよね。(もしかしたら、「蒙古襲来」といった呼び名の方が馴染みがあるという人がいるかもしれません。) いずれにせよ、この2回とも失敗に終わったわけですが、このとき日本を救ったのが「神風」だった、というのがポピュラーな理解の仕方のようです。でも実際には、ただの暴風雨だったわけですが、それではストーリー(ヒストリー)としてインパクトが小さい。それで、いつの頃からか、あれは「神風」だったのだということになったのでしょう。また、単に暴風雨が日本を救っただけでなく、やはり日本側も自ら海防対策を行なっていたわけで、それが「防塁」 (英語で言うと defense wall ) なのです。

なんだか暗に他大学の宣伝をしてしまったかもしれませんね。それでは、獨協大学の宣伝もしましょう。明日10月3日(日)はオープン・キャンパスです。そこで、ワタクシ(板場)が「入試対策講座(英語)」の講師を務めます。午前と午後、1回ずつ行ないます。受験生の皆さん、ふるってご参加ください!
オープンキャンパス情報

もう1つ。同日(つまり明日)、大学院でもシンポジウムが開催され、ワタクシは司会として参加いたします。慶応義塾大学の巽先生をお迎えしてのイベントで、テーマは「文化の翻訳」です。対象は学部生や大学院生、研究者などです。興味のある方は是非どうぞ!
大学院シンポジウム情報


 

10回の国境越え


前の記事で書いたボルネオの旅の続編です。ブルネイでの資料収集の合間に、ボルネオ島に同国と陸続きとなっている隣国マレーシアのサバ州とサラワク州に車で出かけました。その道中の様子を記しておきます。

島国で国境がすべて海の上にある日本に住んでいると国境線(national borders)というものを日常的に意識することはありませんが、世界の大半の国は陸続きの国境を持っています。そして、この国境をめぐってさまざまな出来事が起こり、悲喜こもごものドラマが繰り広げられてきました。

いまアメリカでは1000万人を越える不法移民を減らすために、隣国メキシコとの国境の警備を強化しています。一方、ヨーロッパではEU統合の進展とともに国境の壁はどんどん低くなり、陸路では国境を越えたかどうかもわからないままに隣国に入っていることもしばしばです。アジアではどうかというと、日本、フィリピン、スリランカなどの数カ国を除く国が陸路国境を有し、基本的に国境線ではかなり厳重な出入国のチェックや規制が行われています。



私自身も、数えてみると今までに40ヶ国ほどの国境を陸路で越えてきました。国境越えでたいそう消耗したことも(東欧・旧ソ連圏など)、また陸路での国境越えを拒否されたこともあります。西ヨーロッパ以外では、いまだに陸路で国境を越える時にはちょっとした緊張感を覚えます。

今回のブルネイとマレーシアの間の国境越え、特にブルネイの首都バンダル・スリ・ブガワンから北東へ350km行ったところにあるマレーシア・サバ州の州都コタキナバルに向かうルートは、緊張感こそさほどないものの、これまでにない一風変わった経験をしました。1日かければ楽に移動できる距離と道路状況なのですが、地図にあるように国境が極めて複雑に入り組んでいるため、1日の移動の間に国の境を4回も出入りしなければなりません。現地に長らく在住の友人の指南を受けながら、二人でこのルートを走りました。

まず、ブルネイのバンダル・スリ・ブガワンを出て、国境に向け50kmほど走ります。イスラムの断食月(ラマダン)の最中であるため、イスラム教徒が大半を占めるブルネイでは、日中は人通りもまばらで通勤時を除けば道も空いていました。最初の国境越えではブルネイを出てマレーシアのサラワク州に入ります。
陸路での出入国も、空港での手続きと同じように、イミグレーションでのパスポートチェックと税関(custom)の荷物検査があります。まずは、ブルネイ側の国境検査所の税関で車を持ち出す手続きをし、イミグレーションでチェックを受けます。それを終えてしばらく進むと今度はマレーシア側の国境検査所があるので、そこで入国カードをもらって記入し、イミグレーションと税関でチェックを受けます。空路と違うのは、これら一連の手続きを車に乗ったまま、ドライブスルー形式で行うことです。

ブルネイの領土が2分割されているため、途中、もう一度ブルネイへ入国してから再度マレーシアのサラワク州に戻る必要があります。さらに、サラワク州とサバ州は同じマレーシア領にもかかわらず自治権が強いため、他国へ出入りする時と同じようにパスポートチェックを受けなければなりません。つまり、ブルネイからサバ州に行くためには、片道でも上記の出入国手続きを4回繰り返す必要があるわけです。

現在では、国境の検査所はどこも整備されていて不便さはありませんが、そのたびに入国カードをもらって記入し(この作業ってけっこう面倒ですよね)、イミグレーションの係官がパスポートの履歴をチェックしているのをちょっと緊張しながら待つことになります。

今回はどこの検査所でも引っかかることなく、スムーズに国境越えができました。それ以外の道中は、ジャングルの中やジャングルを切り開いたパーム椰子のプランテーションの間を走り、時たま出てくる小さな町で食事をしたり、村々のマーケットをのぞいたりしながら過ごします。街道沿いのマーケットでは、南国で「くだものの王様」といわれているドリアンがちょうど季節で、どこに行っても山積みにされていました。その場で割ってもらって食べるのですが、これが美味(独特の味と香りなので好みは分かれますが、基本的にウマイです)で次々を食べてしまいます。


街道といっても高速道路ではないので、人々の生活ぶりが間近にみられます。陸路の旅の利点は、点ではなく線でその国をみることができることです。空港のある都市部だけではわからない、そしてじつはその国の大半を占める地方・農村の姿に接することができるのです。

今回、陸路で走って印象深かったことは、熱帯雨林(ジャングル)の伐採とその後の利用状況がよくわかったことです。もともとボルネオは世界有数の熱帯雨林に覆われた土地でした。熱帯雨林とは、高温多雨で地味の良い土地に様々な動植物が高密度で集積した密生林です。高さ50m級の高木から地表を埋めるシダ類まで、様々な木々がぎっしりと詰まった緑の宝庫です。地球上でCO2を酸素に還元する能力が最も高い地域でもありました。

ところが、経済開発と国際貿易の流れの中で1970年代以降、マレーシアのサバ州、サラワク州では乱伐が進み、深いジャングルはほとんど姿を消してしまったのです。そこから切り出された木材の最大の輸出先が日本であったことは有名です。ボルネオで唯一熱帯雨林の原生林がそのまま残ったのがブルネイです。同国は、石油と天然ガスの資源に恵まれているため、他国のようにひたすら外貨獲得のために木材を売りさばく必要がなかったからです。

それは、実際にこの地帯を走ってみるとよくわかります。ブルネイでは地方の街道の両脇に見上げるばかりのジャングルが迫っている地域が多いのに、同じ道でもマレーシア領に入ると背の高い木々が生息する森はなくなり、低木の林か、もしくはパームオイルを採るためにパーム椰子が植えられた大農園に代わります。パーム椰子農園も同じく緑で覆われてはいるものの、CO2の吸収量は遥かに少ないそうです。熱帯雨林の再生には4〜500年かかるとのことで、一度破壊されたジャングルは簡単には元に戻りません。そんな、森林破壊の実態をかいま見る道中でもありました。

このルートは、基本的に道路状況は良いのですが、国境となっている河を含めて橋が架かっていない部分が2カ所ありました。そこでは橋の代わりに車を運ぶ艀(はしけ:またはフェリー)を使わなければなりませんが(写真参照)、ジャングルの中を流れる河をフェリーで渡るのもなかなか面白い体験でした。

また、両国の国境付近で珍しいのは、ブルネイに入る手前のマレーシア側にアルコール類を売る酒屋とパブが林立していることです。これは、ブルネイがイスラムの教義に厳格で、国内でのアルコールの販売をいっさい認めない禁酒政策を取っているためです。

ブルネイ人でもイスラム教徒でない住民やさほど敬虔でないイスラム教徒は、国境からマレーシア側に出てこれらのパブで酒を飲むか、旅行者として持ち込みが認められている量(ビールの缶なら12本、ボトル類は2本まで)を酒屋で買い込んで持ち帰るのです。若いブルネイ人女性のグループが、パブのテーブルにビールの瓶を何十本も並べて昼間から飲みふけっている様子は、両国の国境ならではといえるでしょう。

目的地に近づいたものの、夕方から南国特有の強烈なスコール(ゲリラ豪雨)にみまわれ、最後の数十キロは雨と闇の中での峠越えドライブとなって相当に消耗しました。それでもなんとか無事にコタキナバルに到着することができ、この地域でも随一のシーフード料理と冷たいビールで旅の疲れを吹き飛ばすことができました。

このときのドライブを含め、ブルネイ滞在中の10日ほどの間に国内一周、さらに東西の国境を隔てた隣国へ車で出かけ、合計10回の国境越えをしました。日本との間の出入国を含めて、この間にパスポートに押されたブルネイとマレーシアのビザのハンコは全部で22個、それだけで3ページ分が埋められました。
 多少の体力はいりますが、陸路の旅、おすすめです。

 (文・写真:金子芳樹)

 

ブルネイの7つ星ホテル

夏休みの期間を利用して、東南アジアの一国ブルネイに行ってきました。そのブルネイ、および陸続きの国境を越えて何度も出入りしたマレーシアのサバ州とサラワク州の様子について、2回に分けてレポートします。

ブルネイは1984年に独立した新しい国で、名前ぐらいは聞いたことがあっても、実態を知る人は少ないかもしれません。たしかに人口は30万人ほどで、東南アジア11ヶ国の中でも最も少なく(ちなみに草加市の人口は24万人)、国際社会はもとよりアジア地域においても、けっして目立った存在ではありません。
 

とはいえ、石油と天然ガスに恵まれて国民の平均所得はアジアの中では日本、シンガポールと並んで高く、個人の所得税はゼロ、医療や教育はただ同然、さらにこの国の王様(スルタン・国王)は「世界一のお金持ち」として有名だったりします。また、イスラムを国家の中心に据えた国づくりをしており、人口の3割が外国人出稼ぎ労働者、国民の8割が公務員といった面などを含めて、アジアというより中東産油国に近い国家システムを持つ国という感じです。

エネルギー資源にこと欠かないだけに、最近の日本のような「エコ・ブーム」とはほとんど無縁で、プリウスなどのエコカーもまったく見かけません(最近やっと4台ほど輸入されたとのこと)。一方、同じボルネオ島の国境を隔てた陸続きの地域(マレーシア、インドネシアの一部)で大規模な森林伐採が行われ、熱帯雨林の多くが消滅してしまったのに対して、ブルネイ(千葉県より一回り広い面積)では密生した熱帯雨林の大ジャングルがほぼ手つかずのまま残され、国土の約8割を占めているというエコな面もあります(最後の写真参照)。

また、天然資源の枯渇に備えて独特の産業を築こうとする国家戦略の下、入場料無料の大規模テーマパーク(現在は小額の入場料を徴収)、メディカル・ツーリズムのための高度医療センター、国内の富裕層や外国人の子女を対象としたハイレベルなインターナショナル・スクール、超豪華なリゾートホテルなどを国家(王室)主導で作り上げてきたという国づくりのチャレンジもかつてありました。

そんな、小さいけれどちょっと興味深い国がブルネイなのです。今回は、このブルネイにある「7つ星」と言われる「ザ・エンパイヤ・ホテル」(The Empire Hotel & Country Club Brunei Darussalam: http://www.theempirehotel.com/)について書き留めておきます。

「7つ星ホテル」と称されるホテルが世界には幾つかあります。アラブ首長国連邦のドバイにある海に突き出た三日月型の世界最高層ホテル「ブージュ・アル・アラブ」、北京に最近できた超高級ホテル「北京盤古七星酒店」などを指しますが、ブルネイの「ザ・エンパイヤ」も、しばしばその「7つ星」カテゴリーに入る豪華ホテルとして取り上げられます。
 

通常、ホテルの格付けに使われる「星」の数は1〜5までで、一般的なレーティングで6以上の星が付くことはありません。したがって、星7つといっても、それは「いわゆる7つ星」ということで、「☆☆☆☆☆」のカテゴリーからはみ出すほどの豪華さ、という意味でそう呼ばれているといったほうが良いのでしょう。もっとも、ホテルの格としての星の数に厳密な統一基準があるわけではないようで、国ごと、もしくは評価する主体ごとに微妙に異なっていることもあるので、北京の上記ホテルのように、自称「七星」ホテルが出てくる余地があるわけです。

さて、その「7つ星」の豪華ホテルの一つに、なんと8泊もしてしまった私の感想はというと・・・幾つかあります。

第一に、ホテルの建物のデザインや内外装、広大な空間を使ったリゾート施設、国際的トーナメントも開けるゴルフ場をはじめとする各種スポーツ施設、敷地内に配された映画館やレストラン群などは目を見張る豪華さと質の高さを誇っており、評判どおり圧巻でした。約10年前に、贅を尽くした豪華なホテルを建ててブルネイの象徴としてアピールするという国策の下に、オイルマネーをふんだんに注ぎ込んで作ったのですから、それもそのはずです。

実際に、使用されている大量の大理石や金箔、そして各種木材なども厳選された本物で、その質感の高さに驚かされます。近代的な欧米系の5つ星ホテルが、一見豪華でもじつは大理石風の合成樹脂といったイミテーション素材を多用している昨今、エンパイヤの絢爛さは筋金入りといえます。また、途上国にありがちな、表はきれいでも裏に回ると粗悪な手抜き工事といったことも、少なくとも滞在中には目にしませんでした。こういったハードウェアの面では間違いなく超一流といえるでしょうし、ブルネイという国にとっても貴重な財産であり、潜在的にはとても有益な観光資源であることは間違いありません。

第二に、ソフト面、つまりホテルが従業員を介して提供するサービスの面についてです。この点は、ハード面の豪華さや高品質さとは裏腹に、がっかりさせられる点が多々ありました。具体的には、ベルボーイやフロントのレセプショニスト、コンシャルジュ、ビジネスセンターのアシスタント、さらにはクリーニング担当のスタッフなど従業員の態度や客への応対です。人にもよりますが、概して、笑顔が少ない、言葉が少ない(必要最小限の実務的反応しかない)、客への配慮が少ない・・・といった面です。ひっくるめてホスピタリティーというならば、その点がハードウェアに比べて大きく欠けているとの印象です。


2年前の夏にもうひとつの「7つ星」であるドバイのブージュ・アル・アラブに「潜入」した時に感じた超一流のホスピタリティーと比べると、その差は歴然としています。「潜入」といったのは、このブージュ・アル・アラブは宿泊客(最低でも1泊20万円以上)かレストラン(夕食は1人3万円程度)の予約客しかホテルの敷地内に入れないので、この時はやむなく日本円で7000円もする朝食を予約することでなんとかホテルに入れてもらったからです。一度入れば後はこっちのものなので、7000円分くまなく内部を見せてもらいました。

この時に感じた、「客が何かを求めて動こうとするその直前に、従業員がそれを察してすでに笑顔で動き始めている」といったレベルをホスピタリティーの一流品とするなら、ブルネイのエンパイヤ・ホテルのそれは残念ながらまだまだ三流の域といわざるを得ません。まあ、ただの宿泊施設としてそのようなレベルのサービスを期待しないのであれば、十分に快適ではあるのですが、ハードが超一流なだけにバランスの悪さが特に印象に残ってしまいました。ちなみに、星の数のレーティングは、ホテルのハード面を中心につけられており、ソフト面の不十分さは星の数には反映しないようです。
 

第三は、「7つ星」に見合わない驚くべき激安価格という点です。他の7つ星ホテルが最低でも一泊10万円をくだらないのに対して、エンパイヤ・ホテルは円高も手伝ってなんと1泊約1万円(!:それでなければ8泊もできません、私)、しかもかなり豪勢なビュッフェ式朝食付きです。別に特殊なルートを使ったわけではなく、ホテル自身のオンライン予約サイトに日本から予約を入れただけです(旅行代理店を通すと2割ほど高い)。当初は民営(半官半民的)として営業するはずで、最低価格も5〜6万円に設定されていたようですが、需要が低いのと途中から国営として運営されるようになったことなどから、採算度返しの価格設定がされているようです。

第四に、上の点とも関係しますが、宿泊客、利用客がものすごく少ないということ。近くのシンガポール、マレーシア、タイ、インドネシアなどでは、施設面でエンパイヤの足元にも及ばないのに宿泊代が数倍もするようなリゾートホテルが満杯の盛況だというのに、ここエンパイヤではホテル内のどこに行っても人影はまばらで閑古鳥が鳴いている状態です。まるで貸し切りのようにホテルを使えるのはありがたい反面、なんとも不思議な光景、不思議な現象に映ります。

ブルネイへの直行便がないとはいっても、穴場をみつけるのに目ざとい日本や欧米の観光客がこの超高級・激安リゾート施設に押し寄せないのはなぜなのだろう・・? 観光資源を活用できない国の無策のせいなのか、イスラムに厳格で国内での飲酒を禁止している国柄のせいなのか、もしくは国営の殿様ビジネスでそもそも宣伝やプロモーションをする気がないのか・・・。この状況をみて、ツーリズムの促進には観光資源そのものとは別に、それをアピールする意志と能力がいかに重要かを痛感させられます。

ホテルを出て街や地方に出かけても、興味深い情景に出くわすことが多いブルネイです。アジア有数のオイル・リッチ・カントリーとはいえ、途上国特有の貧富の格差はあちこちで見受けられますし、天然資源に依存しない産業の開発に苦悩する姿もあります。また、イスラムと近代化の折り合いの付け方や、人口の3割に達する外国人出稼ぎ労働者の処遇などにも、この国独特のあり方が垣間見えます。

ということで、小さいながらも、考えさせられることの多い国、ブルネイでした。
  
 (文・写真:金子芳樹)

 

オープンキャンパス

昨日は(そして本日も)オープンキャンパス
私は英語学科の模擬授業を担当しました.
今回は言語コミュニケーションコースの選択科目,
『言語情報処理』を紹介しました.
この授業では,言語データベース(=コーパス)を
専用ソフトウェアを使い分析し,
人間の目で見るだけではわからない,特徴を見つける
というものです.コーパス言語学の基礎的内容です.

来場する高校生の皆さんに身近なものをサンプルにと,
高校で使用されている英語の教科書と,入試問題の
長文英語を比較する形で進めました.

分析は,「量」,「複雑性」,「語彙難度」の観点から行い;

・センター試験とリーディング教科書は
いずれの観点においても似ている
・東京外国語大学の長文は圧倒的多量!
・東京大学の長文は長くはないけど,文構造が複雑
・獨協長文は使用されている語彙がやや難

といったことを示しました.

また,普段はあまり聞きなれないかもしれない

「コロケーション」= 単語と単語の結びつき

の話もしました.

ちなみに,皆さんは次の色を表す単語に続く名詞で,
もっとも高頻度なものは何だと思いますか??

red
blue
yellow
white

答えは...!

つづく.

 

「翻訳をビジネスにする」

引きつづき、連続講演会「仕事と暮らしのつくり方」第三回についてレポートします。6月2日に開催された第三回では、ゲストに本学科OGの河原和子さんをお迎えしました。河原さんはデザインと翻訳の会社アプリオリの社長をなさっています。インタビュアーは本学科4年生の2人です。

河原さんは学生運動が盛んなときに高校時代を過ごし、社会に順応している大人たちに強い違和感をもったといいます。獨協では現代詩を専門とする先生のゼミに所属し、ようやく信頼できる大人を見つけたと思ったものの、社会や組織に組み込まれたくないという気持ちはますます揺るぎないものになりました。

「英語だけは得意だった」という河原さん。獨協を卒業後は、翻訳など、英語に関わるアルバイトを点々としながら20代を過ごします。アメリカに語学留学し、当時のヒッピー文化やロック・シーンから強いインパクトも受けました。いわゆる「定職」に就いたのは30代になってからで、医療機器を扱う大手に就職しますが、会社の移転をきっかけに早期退職して、女性たち5人で会社を立ち上げます。それがアプリオリで、現在では15人の社員をもつ会社となりました。

アプリオリのモットーは「早い安いを売りにしない」こと。たとえば商品デザインひとつとっても、顧客との対面での話し合いを重ね、商品の中身にきちんと添ったデザインになるよう注意を払います。あるいは翻訳でも、翻訳家の原稿に翻訳コーディネータが再度チェックをかけます。

アプリオリのきめ細かな仕事を可能にしているのは、河原さんと社員一人ひとりの信頼関係にあるようです。河原さんが社員に仕事を委ねれば、社員も責任を果たすべく努力する――そうしたいい循環が生まれているようで、組織のひずみに敏感な河原さんならではの雰囲気作りが功を奏しているのでしょう。

河原さんは、これから翻訳家をめざす人へのアドバイスもくださいました。現在ではオールラウンドに何でもできる翻訳家よりも、専門分野をもった翻訳家に需要があるそうです。たとえば証券会社に就職して、3〜4年働きながら金融業界の英語を勉強して、それから翻訳学校に1年通って訳しかたの作法を学んだうえで、翻訳家としてスタート。ただし「いやになっちゃうくらい誠実に」わからないところを飛ばさない根気強さも必要です。

昨今の就職はいわゆる「買い手市場」。就職活動をする大学生は企業の都合に振り回されがちですが、河原さんのお話は、企業に振り回されない働きかた・生きかたを目指すものでした。「人とちがってこうだという気持ちがあるなら、その気持ちをすぐには口に出せなくても大事にしましょう。その積み重ねが自分自身なのですから」――そうおっしゃる河原さんに、インタビュアーの2人をはじめ、うなずく人も多かったようです。

 

「海運会社で英語を操る」


連続講演会「仕事と暮らしのつくり方」第2回が5月26日に開催されました。ゲストは若杉真央(わかすぎ・まさひろ)さん、本学科OBです。若杉さんは静岡市清水に本社のある天野回漕店に勤務なさっており、アメリカの関連会社で社長を務めた経験もおありです。今回のインタビュアーは、ゼミの後輩にあたる4年生2人。

「ふつうの獨協生でした」と語る若杉さんですが、英語には自信があったとのこと。英語を生かした仕事がしたくて、地元の国際物流会社、天野回漕店への就職します。物流会社とは、たとえば製造業者から販売業者へと商品が配送されるとき、その配送部分を代行する会社のこと。天野回漕店では清水港を拠点としつつ、中国、タイ、アメリカなど海外と日本をつなぐモノの運送を手がけています。

働きはじめてみて、荒波のなか漁船に飛び乗る(!)というような苦労はあったものの、英語に関して言えば、業務に使う英語はほぼ決まっていたり、国際船舶の乗員は英語を母語としない人が多いためにかえって分かり合えたりで、さほど困難は感じなかったそうです。しかし大きな試練となったのは、アメリカの関連会社に社長として出向したときのこと。最初は早口のアメリカ英語を聞きとるのが大変だったうえに、初の管理職就任で初の部下を率いねばならず、アメリカでは日本の常識が通用しません。

困難な状況下での若杉さんの対処法は「自分の側の改善を心がけること」でした。早口の英語に一刻も早く慣れるため、仕事の合間にニュース英語を何度も聴くなど、地道な努力を重ねます。また同時に、周囲の人々はもとより、いろいろな業界の人々の話に真剣に耳を傾けることによって、「自分なりのアメリカ」を体得していったそうです。

社長としての任期を無事に果たし、現在は本社勤務に戻った若杉さん。視線はこれからのプロジェクトに向けられています。90年代のバブル崩壊以降、日本の港湾の総取引量は減少傾向にあり、日本で第7位の清水港も例外ではありません。今後は海外と海外を結ぶ物流ビジネスの展開に力を入れたいと熱く語っていらっしゃいました。

インタビュアーの二人は、物流? 回漕店? 海運会社? と最初「?」だらけでしたが、若杉さんに詳しくお話をうかがううちに具体的なイメージがつかめた様子でした。

 

「国際機関で働く」

英語学科では昨年度から「仕事と暮らしのつくり方」という連続講演会をはじめました。毎回ゲストを招いて、現在どんなお仕事をされているのか、どうしてそのお仕事をされるに至ったのかを、大学時代にまでさかのぼって詳しく伺います。職業人の方々の生の声が聞ける貴重な機会です。

さる5月12日には、今年度一回目の講演会が開催されました。お題は「国際機関で働く」で、ゲストは橋本直子さん。橋本さんは、国連代表部や国連難民高等弁務官事務所などを経て、現在、ジュネーブに本部のある国際移住機関(IOM)の駐日事務所に勤めていらっしゃいます。そんな橋本さんのお話を、本学科の学生3人が司会役・インタビュアー役となって伺いました。

橋本さんの大学時代はサークルにバイトに励む毎日だったとのこと。それが海外のニュースを翻訳するボランティアをはじめ、インターカレッジで勉強するようになって、国際関係学に傾倒していきます。決定的だったのはセルビアでのボランティア。孤児となった子どもの描いた絵には戦禍に逃げまどう人々がいて、そのとき、橋本さんは政治が人々の生活を根底から変えてしまう現実を痛感したといいます。

「国際問題に関心があっても、いきなり危険な地域に飛び出して行くのではなく、まずあなたの地域から。身近なところにも海外の方がたくさんいらっしゃいます」「語学力はあって損するものではありません。英語とそしてもうひとつの言語を頑張っておきましょう」等々、たくさん貴重なアドバイスをくださった橋本さん。お薦めの本も、『世界がもし百人の村だったら』、犬養道子の『人間の大地』、昨年文学界新人賞をとったシリン・ネザマフィの『白い紙』など、読みやすいものを挙げてくださいました。

司会とインタビュアーの3人は「私たち、こういうことやるのはじめてなんです」と最初は緊張気味でしたが、橋本さんと呼吸を合わせつつ、聴衆へのつなぎ役を見事に果たしました。あっという間に感じられた90分でした。
 

 

シュタンツェル駐日ドイツ大使

1年生のみなさんは入学から約1ヵ月が経過し、大学というものに、そして獨協というところにもだいぶ馴染んできたことと思います。

さて、すでに1ヶ月前になりますが、1年生のみなさんは入学式でお祝いのスピーチをしてくださったドイツ人紳士のことを覚えていることでしょう。長身でスリムな品の良い「おじさま」という感じの方でしたね。日独関係を歴史的にたどったスピーチもさることながら、20分ほどのスピーチをすべて日本語でなさったのには驚きました。

「おじさま」などと表現しましたが、あのかたは昨年12月から駐日ドイツ大使をなさっているシュタンツェル(Dr. Volker Stanzel)氏、正真正銘のambassadorです(写真中央。左は寺野獨協学園理事長、右はゲートケ本学名誉教授)。正式にお呼びする時には、「駐日ドイツ連邦共和国特命全権大使フォルカー・シュタンツェル閣下」と呼ばなければならない、じつに偉いかたなのです。

日本に大学は山ほどあれど、世界の主要国の全権大使が入学式に出席してスピーチをするという大学はほとんどないと思います。さすが、獨協。ドイツと獨協の深い繋がりを感じますね。

ところで、シュタンツェル大使は、フランクフルト大学で日本学、中国学、政治学を専攻し、その後、京都大学に3年間留学した経歴をお持ちです。博士論文も三島由紀夫の極右思想がテーマだったとか。どおりで日本語がお上手なはずです。駐日大使になる前は在中国大使をされており、まさにドイツきってのアジア通大物外交官といえるでしょう。

そんな偉い方なのに、入学式のあとに獨協の教員や学生と談笑する様子は、とても気さくで親しみやすく、笑顔が優しいおじさま、いや紳士でした。いまドイツ大使館の公式ホームページを見ると、そのトップに、先頃ベルリン映画祭で主演女優賞をとった女優の寺島しのぶさんと並んでちょっとお茶目なポーズをとる大使の姿が載っています(ドイツ大使館ホームページ)。

今年は日本とドイツが交流を始めて150周年目にあたり、来年にかけて「日独交流150周年」を祝うさまざまなイベントが各地で開かれることになっています(獨協でもイベントが企画されています)。この間、きっと、いろいろなメディアを通してシュタンツェル大使の姿を見かけることでしょう。

日独交流、考えてみればこれが獨協のルーツなんですね。

 

90分のShakespeareと9時間のShakespeare

春休み中に、合宿を行ったゼミも多いと思います。私のゼミではみんなで芝居を見に行きました。鳥獣戯画という小さな劇団が上演する『三人でシェイクスピア』という芝居です。

これはもともとアメリカの若者が数名で演じたシェイクスピア劇のパロディが元になっています。3人の役者が次から次へと役を変え、37作品をコラージュにしてものすごいスピードで駆け抜けるように演じるのです。The Complete Works of Shakespeare (Abridged) 『シェイクスピア全集(短縮版)』というタイトルです。遊び心たっぷりのドタバタ喜劇です。

劇団の名前にもいたずらが仕組まれていました。シェイクスピアの故郷ストラットフォードに拠点を置くRoyal Shakespeare Companyの名前は、しばしば短くRSCと省略されます。彼らはReduced Shakespeare Company、略してRSCと名乗っていました。どちらもRSC。イギリスを代表する劇団と、アメリカからやってきた小さな旅芸人一座の名前をうっかりすると見間違えてしまうように、ご丁寧に同じように見えるロゴまで使っていました。

この極小シェイクスピア劇団RSCが演じた『シェイクスピア全集(縮小版)』は、イギリスの観客にも大いに受け、ロンドンのど真ん中の劇場で9年間のロングランで上演されました。そんなに受けた要因の一つは、彼らがシェイクスピアの劇のツボをうまくつかんでパロディにしたからでしょう。たとえばイングランドの王冠をめぐり、果てしない権力闘争と内乱の続く時代を描いた歴史劇の数々。それを彼らは激しくボールを奪い合うアメリカン・フットボールになぞらえたのです。ボール(王冠)は次から次へとめまぐるしく持ち主が変わり、両陣営はフィールド(国土)を我が物にしようと権謀術数をめぐらす・・・。

こんな調子でシェイクスピア劇に描かれた人間臭いドラマの核心だけをチョイチョイとつまんで、つなぎ合わせ、全部で90分くらい。観客は笑い転げている間にあっという間に37作品が終わってしまいます。

その二日前に、私は埼玉市にある劇場で蜷川幸雄氏演出の『ヘンリー六世』を見ていました。こちらは対照的に超大河ドラマ風です。もともと3部作である『ヘンリー六世』を、前後編の二部に再編したものですが、休憩を入れると8時間以上かかりました。

その8時間の間、ずっと繰り返されるモチーフがあります。それは大きな舞台の天井から常に赤バラ、白バラが降り続けるのです。ランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラ、その両家の対立が続くバラ戦争を描くシェイクスピアの歴史劇。どちらが勝利しようと、しょせん大義に差はない。薔薇の花が散り続けるように、戦いの中で命の数々が失われていく・・・。「散華」という日本的な無常感と、シェイクスピアの歴史劇に通底する「王冠をめぐる戦いの空しさ」というテーマを重ね合わせて視覚化したところがこの上演の特徴です。

うんと短いパロディと、重厚長大な記念碑的上演。二つを立て続けに見たわけですが、シェイクスピアのテクストの中の「ツボ」を押さえて、それをいかに表現するかが問題なのだと改めて思いました。テクストを読むということは、この「ツボ」を探し出す行為でもあります。今年ゼミで読んでいるのはTwelfth Night。恋は甘く、切なく、そして滑稽・・・。そんな甘さや切なさや滑稽さがどんなふうにこの喜劇に組み込まれているのか、1年間かけてみんなで読み解いていきたいと思っています。

今日、4月23日はシェイクスピアの誕生日、そして命日とされる日です。

 

2010年度授業開始!

いよいよ今日から2010年度の授業が始まりますね.

今年も頑張って行きましょう!

 

教職ガイダンスに思うこと

新学期を目前にして,もうガイダンスが始まっていますね.

今日は教職ガイダンスに参加し,外国語学部の学生対象の「英語科教科教育法」の登録希望アンケートを取りに行ってきました.この授業は,清水由理子先生,JJ ダゲン先生,浅岡千利世先生と4人で担当しています.4人のクラスの受講人数に偏りがでないように,登録期間前に希望を聞き,バランスを調整するということをしています.秋学期は特に模擬授業を中心に行うので,人数にばらつきがあると不公平になってしまいますので.

今回は今のところ登録を希望しているのは88人.学期が始まってからも登録に来る人は例年いますが,それでも少し少なめでしょうか?

教育学部と違い,外国語学部で教員免許を取る場合はプラス取得しなければいけない単位数が多くて大変です.頑張っていてもなかなか厳しく,途中で諦めざるを得ない人もいますね.就職も厳しい状況ですので,企業に就職か?それとも教職か?と迷いながらの勉強と就職活動の両立はますます難しいことと思います.

ですが,もし教師になりたい!という気持ちを持っているのであれば,ぜひ諦めずに頑張って欲しいですね.教員は教員採用試験に合格すれば絶対になれるわけですし,こういうタイプの試験というのは自分の頑張り次第で合格をつかみ取れるものですからね.「自分の頑張りとチカラ」によって確実に得られる職です.

それに教員は本当にやりがいのある仕事です.
自分の働きかけが他の人の知識や能力,成長に影響を与えているかもしれないと思うと,仕事する「意味」を実感することができます.

明日から新年度ですね.
私も気持ちを新たに,また1年頑張ります.

 

全国英語教育学会と大阪の夜

私は英語教育を専門としていますので,『関東甲信越英語教育学会』という学会に所属しています.

学会では;

・年次研究大会の開催(例年8月)
・研究紀要の発行
・研究企画委員会による月例研究会,春季研修会の開催
・研究推進委員会による読書会,座談会の開催
・マルチメディア委員会によるマルチメディア講習会の開催
・ニューズレターの発行

などを行っています.英語教育学会ですので,会員は中学,高校の英語の先生方を中心に,大学教員(研究者),大学院生,そして最近は小学校の先生方が増えています.

来年度からこの関東甲信越英語教育学会の事務局長に就くにあたり,この週末は全国各地の地区学会の統一体である『全国英語教育学会』の理事会に,会長副会長と一緒に参加してきました.

議題は;
・研究企画を推進するにあたっての学会費の運用
・2010年度大阪研究大会のプログラムについて
・2011年度山形研究大会のプログラムについて
などでした.

懇親会では各地の学会代表の先生方(北海道から沖縄まで)とお話し,各地での英語教育への取り組みなどをうかがって勉強になりました.
日本の英語教育…
特に小中高での学校教育については,いろいろ考えないといけませんね!

そして!
夜は翌日の出版社での会議の前哨戦.
地元の編集者の方に「新世界」に連れていって頂きました♪
いや~,たのし.

 

佐藤勉先生送別会



 43年間獨協大学で教育・研究に尽力されてこられた佐藤勉先生が3月にご退職されました。12日には学内のスタイルカフェで英語学科、交流文化学科合同で送別会を行いました。学生の皆さんはご存知なかったかもしれませんが、スタイルカフェは閉店後このようなイベントで時々利用されます。
 左は同じ文学がご専門の白鳥先生が思い出を語り、乾杯の音頭をとられたところです。比較的最近入られた方も佐藤先生のご功績に感謝して乾杯(上)。
 佐藤先生はこの4月からも非常勤講師として引き続き授業をお持ちになります。 

 

翻訳者泣かせのタイトル

さて、冒頭からクイズです。下記の文学作品の著者は誰でしょう?

A Wild Sheep Chase

ロンドンの書店をのぞくとフィクションの棚に、Haruki Murakamiの作品がずらりと並んでいます。Norwegian Wood, What I Talk about When I Talk about Running, The Wind-up Bird Chronicle, Kafka on the Shore, Undergroundなどなど。上記のタイトルはその中の一冊。村上春樹の初期3部作の1作『羊をめぐる冒険』です。

店頭の目立つところに平積みなっていることもあり、村上春樹が一部の文学オタクに読まれるだけではなく、海外でも幅広い読者を得ていることを、改めて実感します。ジェイ・ルービン、フィリップ・ゲイブリエルというすぐれた日本文学研究者による英訳がなされた意義も大きいと思います。

さてその翻訳者泣かせなのが、村上春樹の最新作『1Q84』のタイトルです。これはイギリスの小説家ジョージ・オーウェル(George Orwell, 1903-1950)の最後の作品Nineteen Eighty-Fourのもじりです。この小説のタイトルはイギリスでもしばしば1984と数字で短く省略されます。これを「イチキュウハチヨン」と読み、9を同音のQに変えて『1Q84』としたわけです。

内容は直接関連しているわけではありませんが、村上はオーウェルを土台にしています。オーウェルが不気味な近未来を予測し、村上は日常生活の背後に潜む暗く閉ざされたパラレルワールドの可能性を提示します。いずれも架空の世界に現実の負の面を映し出した、いわゆるディストピア小説です。

『1Q84』という文字だけでもオーウェルの1984との連関はある程度明らかですし、Qはquestionの頭文字で現実に対する問いかけを示唆しているのかも・・・というところまでは伝わるでしょう。しかし同音の9とQの言葉遊びは日本語のわからない人には通じません。(タイトルに「日本語では9とQは同じ読み方である」などという注釈をつけたらしらけてしまいます。)このあたりが言葉というものの面白さであり、難しさでもあります。

先日、オーウェルの新訳が出たので読んでみました。とても読みやすい翻訳になっています。オーウェルは人々の生活を常時監視する「テレスクリーン」という恐ろしい機械が近未来に普及することを想像しました。双方向の情報ツールがすでに実現している現在では、SFという印象は薄まり、全体主義に対する警鐘を鳴らす寓意文学として読めます。訳者の高橋和久氏は『一九八四年』と題名には漢字を使っています。書かれてから半世紀以上を経たこの現代の古典的名作には、「イチキュウハチヨン」というデジタル信号みたいな読み方ではなく、「センキュウヒャクハチジュウヨネン」という普通の読み方の方がふさわしいでしょう。

村上春樹の『1Q84』の完結編Book 3が4月に出ます。こちらも楽しみです。

 

ゼミ論文集の編集

先日、ゼミの論文集『Asian Voice』の編集作業をゼミ生の担当者8名でやってもらいました。DTP(Desktop Publishing)ソフトを使った作業は、ソフトの使い方の習得から始まって、けっこうたいへんなんですが、今年もみんな必死で取り組んでくれました。その後、数日間の編集(レイアウトや校正)行程を経て、近々、印刷所へと入稿できそうです。

今年も3月末のゼミ合宿の際には、卒論(4年生)とゼミ論(3年生)が掲載された3百数十ページの論文集2010年版を、卒業する4年生も含めたゼミ生全員に配ることができると思います。それぞれにとって、大学時代の自分の到達点を確認するマイルストーンになってくれればいいなぁと思っています。

 

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