ブータン王国バイクツーリング


 夏休みにブータン王国を旅してきました。昨年は日本からDoor to Doorで韓国をバイクで一周してきたのですが、今年は趣が変わり、現地でインド製のバイクを借り、現地ガイドとサポートカーを引き連れてという、なんだか大がかりなツーリングとなりました。ということで、一般にあまり馴染みがないブータンの情報と合わせて、その様子を紹介しておきます(写真はクリックすると拡大します)。

・ブータンの観光事情
 

ブータン王国といえば、若い国王が結婚したての王妃を伴って2011年に来日した際、二人の一挙手一投足がマスコミで報じられ、日本でもにわかに有名になりました。 

長きにわたって外国との交流を制限する鎖国的な政策をとり、開放策に転じた後も「GDP(国民総生産)ではなくGNH(国民総幸福量)の向上を目指す」というキャッチーな国家ビジョンを打ち出してきた一風変わったアジアの途上国として気になっており、私自身もいつか訪れてみたい(できればバイクで)と以前から考えていました。しかし、旅行で行くには何かと敷居が高いのがブータンです。

なにしろ、各国が手っ取り早い外貨獲得策としてこぞってインバウンド観光の振興を推進するなか、ブータンは外国人の自由旅行をいっさい認めず、実質的に旅行者数を制限してきたのです。いまだに、政府が定額の旅行料金(シーズンによって1日200米ドルまたは250米ドル)を設定したうえで、利用するホテル、レストランから同行するガイド(同行は必須)まで、すべて事前に指定するセットメニュー型の旅行しか認めていません。

ブータン政府はこれを、伝統文化と自然環境を守りつつ、観光資源を質の高い状態で外国人に提供するため、と言っています。実際、私が今回見た限りでも、この国の観光資源はきわめて豊富で、たしかに良質に保たれています。その反面、ブータンを訪れたい外国人にとっては、価格の面でも自由度の面でもハードルが高くなっており、結果的にブータンへの外国人観光客は年間2万人程度に抑制されてきました。 

しかし、その一方で、政府は観光振興を政策の柱の一つに掲げてもいるのです。観光客の絶対数は少ないものの、観光業はGDPの十数%をも稼ぎ出しています。2011年のワンチック国王の訪日も、日本からの観光客誘致が一つの狙いであったのは間違いありません(実際に国王訪日を境に日本人観光客は倍増)。観光についてこの国は、いわばブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような状態なのです。このことからも、ブータンの特殊性の一端が伺えるでしょう。

・旅のセッティング 

そんなブータンなので、国内をバイクで自由に走り回れるなど、とても考えられませんでした。かといって、高額の料金を払ってセットメニューのツアーに参加する気にはなれず、個人的には「行きたくても行けない」国だったわけです。 

ところが・・・たまたま「Bhutan」と「motorcycle」をキーワードに(日本語ではなく英語で) Webで検索してみたところ、ヒットするではないですか! しかも、そのまんま「Motorcycle Bhutan」というバイクツーリング提案のページ。さらにそれは、同国最大手の旅行会社で政府にも近い「Bhutan Tourism Cooperation Ltd.」(BTCL:政府観光公社が1991年に民営化)のサイト内にありました。これは政府公認みたいなものです。このサイトを見た瞬間、私のなかでブータン行きのスイッチが入りました。

そのあとすぐにBTCLにコンタクトして、旅程やルートを含めた様々な打ち合わせや条件交渉をし、国際送金(かなり面倒)での支払いを済ませました。担当者はこちらの細々した要求を理解したうえで、ブータンのルールや流儀との兼ね合いなどを考慮し、じつに丁寧に対応・説明してくれました。ブータンは小さなアジアの最貧国ですが、一部の人たちの教育水準は英語力も含めて、かなり高いのだろうとこのとき感じました。


この国でのバイクのツーリングは、冒頭にも書いたように、もう1台のバイクに乗るガイドが同行し、サポートトラックが後に付き、その車にドライバーとバイクのメカニックが同乗することが条件です。当初、ガイドもサポートカーもいらないから、バイクだけ貸してくれと要求しましたが、もちろんそれは認められません。結局、バイク2台とピックアップトラック1台に乗る計4人のチームで7泊8日のツーリングに出かけることになりました(料金は、バイク代60米ドル/日以外は普通の旅行者と同じなので、じつはとてもお得)。これまでほとんどが一人旅だった私としては、大名行列のような大げさなセッティングは苦手なのですが、今回については3人のブータン人といっしょに巡る1週間の旅はとても有意義で、結果的にこの体制で良かったと思っています。

ブータンの国家としてのあり方について旅の途中に考えたこと(例えば、GNHの追求は通常の途上国の開発政策とどう違うか、国民はなぜ自分たちが幸福だと 思っているのか、この国の王制と民主化との関係は、など)は、別の機会に述べるとして、このブログではとりあえず、バイクで走りながら見聞きし、経験した ことを書いておきます。

 ・ブータンの道路

バイクの旅では、まず乗るバイクと走る道路の状態が重要です。今回使ったバイクは、インド製の「ロイヤル・エンフィールド」という南アジアの国々では有名な「名車」です。みるからにクラッシックなバイクで、実際に基本設計は50年ほど前のものですが、インドでは現在でも新車として生産・販売されています。もともと旧宗主国イギリスのメーカーが製造していたものを、インド資本が買い取って作り続けているのです。機械としての絶対性能は、日本製や欧州製のバイクと比べて大人と赤ん坊ほども違いますが、独特のテイストを持った魅力的なバイクなのです。
もう一つ重要な道路状況ですが、この点でもブータンは特徴的でした。かつてバイクで走った41カ国の中で、ロードコンディションが最悪だったのは、社会主義崩壊直後に走ったルーマニアと10年ほど前に行ったラオスですが、じつはブータンの道はそれらに並ぶレベルです。道路は最も基本的な経済・社会インフラですから、道の悪さはこの国の発展にとって大きな足かせになっているはずです。

ブータンの道が悪い(舗装が行き届いていない、でこぼこのまま補修がされていない、道幅が狭い、崖崩れなどの処理が不十分で危険など)最大の理由は、この国の地形にあります。ブータンの国土は、北は世界最高峰の8000m級のヒマラヤ山脈から、南は海抜200m程度の亜熱帯地域まで、全体に南北に大きく傾いた斜面にあります。大量に降る雨やヒマラヤからの雪解け水がその斜面を流れ落ちて急流を作り、大地を削り取って南北に多くの深い谷と高い尾根を作り出しているのです。


主要な町はそれぞれの谷の部分にあるので(標高は2000m前後)、これらの町を結ぶ道路は、谷から谷へと標高3000m以上の山を上って下るルートとなります。車がまともに走れる幹線道路は、基本的に東西方向に一本、南北に数本あるだけの簡単な構造ですが、特に東西を結ぶ道路は谷と尾根を幾つも横切る曲がりくねった急峻な山岳路となってます。このような山岳地帯特有の険しい地形と道路整備に手が回らない経済状況、それらが道路の整備を遅らせているというわけです。今回走ったのは主要な町を巡る東西間の往復ルートなので、とにかく毎日、標高3000m以上の峠を越えるライディングでした(景色は最高です!)。町の周辺の道路は舗装もしっかりしていて問題ないのですが、山に登るに従って悪路が多くなります。8月までの雨期に大量の雨が降るため、切り立った山肌を削って作った道路はあちこちで土砂崩れを起こしていました。ちょっとでも道を外れたら、はるか彼方の谷底まで真っ逆さまという、日本なら絶対に通行が許可されないようなところを何カ所も通りました。 

そんな山間の道を走っている時、日本の援助(ODA)で架けられた橋に3ヶ所で出会いました。それほど巨大な橋ではありませんが、頑丈そうな鉄の橋が、「日本国民よりブータン王国と日本国の友好と協力のしるしに」と記されたプレートとともに、それぞれの場所で存在感を放っていました。 

それからもう一つ、まだ車が少ないこともあり、ブータンには、なんと信号機が一つもありません。首都ティンプー市内はさすがに車の数は多いのですが、それでも交差点に信号はなく、警察官が手信号で交通整理をしています。考えたこともありませんでしたが、日本にはいったい何本の信号機があるのでしょう。その違いが、日本とブータンの交通事情、ひいては人々の生活や発想の違いを端的に表しているといえるかもしれません。 

・自然と歴史遺産

この国を回ってみて、まず印象的なのは、都市部以外ではほとんど手つかずに残されている豊かでダイナミックな自然と、その中で伝統を維持しながら生活する人々の姿です。自然は、特にヒマラヤから連なる山岳地帯の山と谷が織りなす壮大な景観が見事でした。

バイクの旅は、生身の体を外界にさらしながら五感のすべてを動員してその場所を感じ取り、少なくとも移動した道の周囲の風景のすべてを(一秒も居眠りすることなく)記憶に刻みながらたどる点で、他の旅と違います。今回はそんなバイクでの旅の効果が、うまく発揮されました。
 

都市部から農村部を抜け、川に沿って高原地帯を通り、さらに急な坂を登って富士山の頂上に近い高さの高山帯を越えるという一連の行程、これを地方ごとに少しずつ違う個性を感じながら毎日体験できるのです。また、この国では標高2500m以上の高地にまで人々が住み着いて、自然の中で農畜産業に従事しながら生活しており、そのような人々とも道すがら間近に触れ合うことができます。 

自然とともに印象深いのは、15世紀から19世紀にかけて築かれた城(ゾン)と寺院(ラン)、およびその中に所蔵されている仏像や壁画の数々です。主要な町に必ずあるゾンは、この国を代表する文化遺産であるばかりでなく、現在でも各地域の行政と仏教信仰の中心として生き続けています。各地のゾンの内部には、その地方の行政機関がオフィスを構え、日々の業務にあたっています。首都ティンプーのゾンには国家の行政機構が入っています。また、ゾンの半分は寺院と僧侶の宿舎となっており、幼い修行僧から高僧まで多くの僧侶が住んでいます。 

また、ゾン内の寺院やそれ以外にも各地に数多く存在する寺院の中には、驚くほどたくさんの仏像や壁画が納められています。残念ながら寺院内部は撮影禁止のため、写真で紹介することはできませんが、それはそれは素晴らしい文化遺産の宝庫です。ブータンの仏教はチベット仏教の影響を色濃く受けており、日本の仏教遺産とは趣を異にしますが、それぞれに特徴を持ち、迫力あふれる仏教遺産の数々に圧倒されました。 

観光産業の観点から見ると、この国の自然と歴史・宗教遺産は、極めて価値の高い観光資源として、世界中から観光客を引きつける魅力を持っていると思います。ただ同時に、これらは、今を生きるブータン人にとって日常に埋め込まれた生活の場であり、また神聖な信仰の場でもあります。そういった様子を目にすると、それらを観光資源として外国人に開放することを躊躇し、制限しようとするこの国の姿勢もまた理解できます。

・人々の生活


ブータン人が自ら幸福であると思っているかどうかは別として、近代化に向けた経済発展の水準を他国と横並び比べる限り、ブータンは明らかに低開発の国といえます。公務員の平均月収は2〜3万円だと聞きました。ただ、地方の農村部を含めて電化率はインドやネパールよりもかなり高いと見受けられますし、水も質を問わなければいたって抱負です。また、自動車やバイクは少ないですが、携帯電話が地方の農民の間にまで広く普及しているのには驚かされます。

外で目につくのは、民族衣装であるゴ(男性)とキラ(女性)を身にまとった人々の姿です。学校や職場の制服は民族衣装と定められ、またブータン人には外出時や行事への参加時などに民族衣装の着用が求められます。私のガイドを務めてくれたタシも、ゾンや寺院を訪れる際には民族衣装に着替えてからバイクに跨がります。また、約60万人の人口の1%ほどが僧侶という敬虔なお国柄から、赤い僧衣に身を包んだ僧の姿も多く目にします。伝統文化を維持しようとする側面がある一方、2000年代からの対外開放策やグローバル化の影響によって、それらが徐々に変わろうとしている面も見受けられます。携帯電話の普及もその一例ですが、それ以外にも、建設現場や道路工事の現場で働いている労働者の多くがインド人やネパール人であることに気づきます。ブータン人自身も所得水準はまだ低いのですが、さらに賃金の安い外国人労働者を近隣諸国から呼び入れているのです。もともと多民族な国ですが、さらに外国人労働者が増えて多民族化が進んでいるようです。

最後に、教育面、特に英語教育についてちょっとだけ触れておきましょう。最初にも述べたように、教育水準の高いブータン人は英語が得意です。ガイドのタシもインドで大学教育を受けており、流ちょうな英語を話します(ただし、ブータン人の英語はインド人のそれと比べてずっとわかりやすいと思います)。王族や貴族層のように英米で高等教育を受ける人々も一部にいるようですが、むしろ彼のように隣国インドに留学する人のほうが多いようです。

国内の小学校でも英語教育は盛んで、今回アポなしでいきなり見学させてもらった地方農村部の小学校でも、かなり高度な英語の授業をしていました。小学校でも理系の授業などは英語を授業用語に使っているようです。国語であるゾンカ語を整備しながら、同時に英語にも重きを置く姿勢がうかがえました。ということで、書き始めたら長くなってしまいましたが、それほどブータンが印象深い国だったということなのでしょう。未知の国への旅という意味でも、秘境でのバイクツーリングという意味でも、心に残る経験でした。いずれにしても、お世話になったブータンの人々に感謝です。

(文・写真:金子芳樹)




 

講演会「海外との関わりで見えたもの ― 広報ウーマン6年間のヒストリー」

英語学科主催の連続講演会「仕事と暮らしのつくり方」の2012年度第1回講演会が、ゲストスピーカーに間島ゆかりさん(左の写真)をお招きして、627日に開催されました。

海外との関わりで見えたもの ― 広報ウーマン6年間のヒストリー」と題された講演では、間島さんが、これまで2つの職場で担当した広報業務を中心に、大学時代のアメリカ留学から直前まで勤めていたバングラデシュ政府観光局の仕事に至るまで、それぞれの段階で何を感じ、考え、そしてどう行動してきたかを語ってくださいました。

特に、大学卒業後勤めた外資系PR代理店で油がのってきた時期に、あえて新たな挑戦の場を求めて青年海外協力隊に応募し、観光業隊員として新天地バングラデシュに飛び込んでいった時の話には、50人を越える学生のみなさんも強く刺激されたようです。

間島さんは、バングラデシュが持つ低開発や貧困といったネガティブなイメージを払拭したいという想いから、様々なメディアを使って同国の良さをアピールする活動を行ってきたそうです。その一環として間島さんが作成されたドラマ仕立ての観光PRDVDSONAR BANGLA~夢のような5日間の物語」を、講演会の後半に鑑賞しました。間島さん自らが観光客役として主演するこのDVDでは、バングラデシュの見所や現地の人々の生活や考え方などがとてもうまく表現されていました。

この連続講演会は、毎回ゲストスピーカーの方に学生の代表がインタビューする形式で進められますが、今回は金子ゼミを代表して澤木さくらさん(写真右から2人目)、小見山紗織さん(同右端)、畑澤直希くん(同左端)がその役を務めてくれました。今回のゲストの間島さんは、もともと澤木さんがバングラデシュにインターシップで1年行っていた時に出合ったのがきっかけで、お招きすることになったのです。

これからも、ちょっと変わった魅力的なキャリアをお持ちのゲストの方々をお招きしてお話しをうかがい、学生のみなさんに将来の職業選択や生き方のヒントを掴んでもらえたらいいなと思っています。

 

世界に発信しない我が家のGAMAN

この度の東北地方太平洋沖地震に引き続き起こった福島の原発事故の第一報を聞いた時、私は「バチ」があたったんだと感じました。表現は全く不適切だったと思いますが、石原都知事の言わんとしたことと同じかと思います。こういう事故の可能性がゼロでないことは分かっていたのに、あたかもゼロだと自分達に都合の良いように思い込んで(正常化の偏見(normalcy bias)というのだそうです)これまで遠慮なく電気を使って来ました。直接甚大な「バチ」を受けてしまった東北、北関東の方に比して、私が住んでいる神奈川県大磯では計画停電も実施されず、全く普通の生活が営め、地元でとれる野菜が豊富に駅前のアンテナショップに並んでいます。自然にわき起こった懺悔の気持ちと実質的な節電の必要性から、現在我が家は極端な節電生活を営んでいます。

まず、電気を使う暖房装置は震災以来全く使っていません。唯一の暖房「装置」は湯たんぽです。プラスチック製のものもありますが、我が家のはレトロな金属製。もともと1つしかなかったのですが、買い足して家族1人に1つ使っています。お湯を沸かして中に入れて、そのままでは熱くて火傷してしまうので、厚手の袋に入れて、足下に置いたり、抱きかかえたりします。1日2回お湯を湧かして入れれば十分暖かく、大変すぐれものです。


次は着ぐるみのブランケット。湯たんぽも全く使っていなかったのですが、このブランケットも子供が小さい頃使っていたもので、MOTTAINAIの精神(か、単に処分するのがめんどくさかったのか)から取っておいたものを着てみたところ、大人でも足下まであり、湯たんぽと組み合わせるとかなり暖かいです。大学生の皆さんも子供の頃寝冷えしないようこういうのにくるまれて寝てませんでしたか?

とは言え手はかじかんでしまいますので、やはり、大分前にはやった(かどうか知りませんが)指先が空いている手袋が登場。左が指先が空いた状態、右はキャップをかぶせて隠した状態です。指先をあけるとMacで仕事ができます。

東北の方のおかれた状況を忘れないように、デスクトップは震災直後の写真に変えました。


照明も極力つけず、夜はキッチンのボールの内側にアルミホイルを敷き、自転車のライトを入れて使っています。クリップ式でどこにでも設置できるLEDライトも買いました。我が家のテレビはパイオニアのKURO(マニアの間では有名なプラズマテレビで既に生産中止)という相当大きく、おそらく電気をたくさん食うものなのでほとんどつけず、Gyaoが無料で流していたNHKニュース(現在は放送中止)とその他のインターネット記事をMacで読んでいます。お陰で、水野解説委員と山崎記者のファンになりました。

以上が我が家の主なGAMANですが、今朝、福島の農家の方が出荷制限が続く状況を悲観してなくなられたというニュースが流れました。痛ましいことです。福島で農業、酪農業、漁業を営んでいる方にとってはGAMANの限度をはるかに越えています。長年住み慣れた土地からは離れがたいと思いますが、休耕地を利用して、移住して生活するなど、前向きに考えられるようにならないものかなどと考えますが、浅知恵なのかもしれません。

 

世界に発信する日本人の強さ:GAMAN

皆さんの中にはこのたびの「東北地方太平洋沖地震」によって、ご自身もしくはご親戚、友人が大きな被害を受けられた方がおられるとおもいます。心よりお見舞い申し上げます。

また、新入生の方は特に入学式を中止するという異例の事態になり、大変申し訳なくおもいます。実は私は4月1日に英語学科長として皆さんにご挨拶をするはずでした。学部・学科別ガイダンスは18日に延期されましたので、その日には皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。

2週間ほど授業の開始が遅れてしまったので、その前に、この震災に立ち向かっている日本人の姿がどのように海外で報道されているか、原文のリンクを集めました。内容はテレビ、新聞、インターネットなどで日本語で広く報道されているので、原文を読む際は辞書など使わず、読み流してみて下さい。

ケニアのワンガリ・マータイさんが提唱している"MOTTAINAI"に引き続き、東北地方の方の"GAMAN"が注目されていますし、私も、マスコミのインタビューに対して、深い悲しみにあるはずなのにそれをストレートに表に出さず、冷静に答えている被災者の方々に敬服します。さらに自衛隊、消防庁、東電(の本社ではなくむしろ関連会社!!)、その他福島の原発危機と戦っている方、インフラの復旧や食料の供給に携わっている方の力強さに深く感謝します。

In Deference to Crisis, a New Obsession Sweeps Japan: Self-Restraint (March 27)


UK Guardian Japan disaster: reconstruction effort puts town on road to recovery

Sympathy for Japan by Nicholas D Kristof (March 11, 2011, 10:33 am)

Last Defense at Troubled Reactors: 50 Japanese Workers (March 15, 2011 )

Celebs, Execs Donate to Japan (March 20)


Transcript of Obama's Remarks on Japan (March 17)

 

街に着いたら市場と本屋・本屋編

市場と本屋。どこに出かけても、時間があればこの二つは必ず覗きます。いえ、時間がなくても、観光名所のひとつやふたつ、三つや四つはとばしても、本屋と市場には行かずにいられません。二つの場所の賑わいは、その場所の日常生活の活力のバロメーターでしょうし、そこに並ぶ品々には、風土と歴史と文化についての情報がぎゅうっと詰まっています。

さて今日お届けするのは、ロンドンでももっとも人通りの多い場所のひとつ、ピカデリー・サーカス(Picadilly Circus)からすぐのところにある、大手書店Waterstones'のウィンドウの写真です。ここは現在、ヨーロッパ最大の書店、夜9時まで開いていて、本好きには嬉しい場所。6月から8月にかけて、歩いて15分ほどのコヴェント・ガーデン(Covent Garden)に住んでいたので、人混みをかき分けかき分け、夕方の散歩がてら、この本屋にはよく出かけました。本を買っても買わなくても、ウィンドウを眺め、いくつかのフロアーをめぐって、ああ、これも読みたい、あれも読みたい、でも一日は24時間、起きているのは16時間、仕事もあるし、慣れない場所での生活は生活するのが仕事みたいなものでなにかと時間をとられるし、ああ、でもでも、おもしろそうなものがこんなにある、と幸せな消化不良とともに店を後にし、頭を冷やすため、時には遠回りして、セント・ジェームズ公園のほうに降り、北国の夏のいつまでも暮れない青い夕刻、芝生で一休み、トラファルガー広場を抜ける30分コースでフラットに戻ったものでした。(セントラル・ロンドンのvirtual散歩のためには、下の地図をクリックして拡大してみてください。)


まあ、そんな個人的な思い出バナシはさておいて、今ロンドンでどんな本が今読まれているのかを映す本屋のウィンドウを覗いてみましょう。この6冊、それぞれにジャンルも書かれた時期も異なりますが、共通項が一つあります。それは書き手がいわゆる「生粋の英国人」ではないということ。英語圏メトロポリスの文化の一側面をよく表しているな、と感じました。(なかで唯一英国生まれの英国人だと思われる、ストリート・アーティストのバンクシーはーー右上が作品集ーー覆面作家でプロフィールを明らかにしていません。)


この6冊のなかの気に入りの2冊について、簡単に解説を。左下、切なさときびしさのまじった瞳の男性が表紙からみつめているのは、わたしの大好きな作家、Sam Selvon(サム・セルヴォン)のThe Lonely Londoners (1956)。Seolvnはカリブ海のトリニダードのキリスト教を信仰するインド系の家庭に生まれ、1950年、27才で英国に移住しました。なぜカリブ海にインド人?インド家庭なのにキリスト教?不思議に思った方は、ちょっと調べてみてください。15世紀末、コロンブスによる「発見」によって、旧世界と新世界が出会った場所、カリブ海地域の複雑な歴史がわかるはずです。さて、第二次世界大戦後、そのカリブ海の英国植民地からは、宗主国の戦後復興の労働力として、1948年から62年までの閒に25万という人々が海を渡りました。Selvonもその移民の波の中にいた一人です。小説が生まれたのはもちろんロンドン。かつては憧れの地だった場所、でも来てみれば寒い暗い孤独な北の大都会で、差別に晒されながらも、たくましく日々をしのいでいくカリブ移民たちの姿を、哀しみまじりのユーモアとともに描いています。時に美しく煌くけれど、日常はくそったれな灰色の街への幻滅と、それでも消えない愛着とが、じわっと伝わってきます。半世紀以上も前にここで書かれた小説が今も版を重ね、読み続けられているのはなぜなのか、誰がいまこのストーリーの登場人物に自分の姿を重ねているのか、興味深く思います。ちなみにSelvon自身は、73年には再びの移住、カナダへと移っています。


もう一冊は左上、現在ロンドン市内に4店舗を持つ人気レストラン、OttolenghiのSami TamimiとYotam Ottolenghiの二人によるレシピ本。インテリアコーディネーターをしている若い英国人の家にお茶に呼ばれて、Ottolenghiのケーキをはじめて食べたときには、ちょっとびっくりしました。東京やパリでも通用しそうなケーキが、食の後進地だった英国でも手軽に手にはいるようになったとは!これまでの店売りのケーキと圧倒的に違うのは、軽みと、自然な、しかしくっきりとしたフレーバー。「どこで買ったの?」と聞くと、「お客さんのときにはここで買うんだ。オーナーシェフの名字がそのまま店名みたいだけど」とレシートを見せてくれました。Ottolenghiという名前に、やっぱり英国以外のルーツをもつ人だな、とその時思ったのを覚えています。(写真は友人宅でのお茶のテーブル)


どういう人たちなのだろう、と、今回、この記事のために調べてみたら、TamimiとOttolenghiの二人はともに現在はイスラエルと呼ばれる場所の出身です。「現在イスラエルと呼ばれる」と面倒な表現をした理由は説明するまでもないでしょう。OttolinghiのHPの紹介によれば、Tamimiは東エルサレムのアラブ地域で育ち、両親がパレスチナの伝統的な料理を丁寧に熱心に作るのをいつも見ていたそうです。東エルサレムは48年にアラブ=イスラエル戦争でヨルダン領となり、67年にイスラエルが六日戦争と言われる戦争で領土としたアラブ系の人々が住む場所です。そして、店のpatron chefで、英国の日刊紙The Guardian(『ガーディアン』)で野菜料理の頁も持っているOttolenghiのほうは、母がドイツ人、父がイタリア人の、エルサレム生まれ。文学と哲学の修士号をとり、日刊紙Haaretz(『ハーレツ』)で働いた後、料理の世界に転身しました。ちなみにかつて働いていたHaaretzは、イスラエルメディアの中では、ガザ占領やウェスト・バンクへの入植にもっとも批判的なスタンスをとり、知識層に読まれている新聞として知られています。興味深い人生の軌跡をもつ二人が、90年代後半にロンドンでチームを組みスタートさせたのが、この料理店なのです。(写真は本の写真の拡大版)

Ottolinghiの二人がなぜロンドンを仕事の場に選んだのか、そこまでは今のわたしにはわからないけれど、もう何百年も、この北のメトロポリスが様々な事情で故郷を離れた人々にとっての「避難都市」の役割を果たしてきたのは事実です。マルクスもフロイトも、ここで晩年を送り亡くなりました。ハイゲイト墓地(Highgate)のマルクスの墓には、例の有名な一節、'WORKERS OF ALL LANDS UNITE'(万国の労働者たち、団結しよう)に続いて、'THE PHILOSOPHERS HAVE ONLY INTERPRETED THE WORLD IN VARIOUS WAYS - THE POINT HOWEVER IS TO CHANGE IT.'(哲学者は様々に世界を読みといてきた。けれど大事なのは世界を変えること。)と刻まれています。マルクスが亡くなってから125年、2008年の夏、資本と欲の暴走の結果、合衆国で1929年の大恐慌以来の金融危機が起き、それに端を発する世界不況はいまも続いています。日本でも、派遣労働者の厳しい生活状況などが問題となっていますが、現在欧州のあちこちでは、悪化する労働状況と生活の苦しさを訴える労働者たちの抗議行動が頻発しています。そして、UKでは、日本でも報道されているように、このブログの前回の記事でも少し触れたように、学費値上げと一連の財政支出削減に抗議する学生たちの行動が本格化してきています。大学へ補助金カットと学費値上げが議会に出されるまでの、これから二週間ほど、この行動によって何らかの変化がもたらされるのかどうか、目が離せません。今回もタイトルからずいぶん遠いところまで散歩してしまいましたが、ふたつのゴハン、食べものと読み物から始めた話は、どこにでもつながっていくようです。それではまた。

 

どこでもゴハン、ふたつのゴハンaka Greetings from London 


こんにちわ。日本ではもう「こんばんわ」の時間ですね。ロンドンからはじめての投稿です。今年の3月末から一年間のサバティカルで、草枕の日々を愉しませてもらっています。 この半年、ロンドン市内、UK国内、そして欧州内、と大小の移動を繰り返し、住む場所も、耳に聞こえる言葉もずいぶん様々に変わりました。いくつかの仮の住まいと旅先を、トランクひとつで、行ったり来たり。変化の多い、そしてモノの少ない暮らしを続けきて、いま実感しているのは、この体がどこにあっても、ふたつのゴハンが生活の基本だという、とてもとてもシンプルなことです。

ふたつのゴハンとは、体のための食べ物と、頭とこころのための食べ物である本、Food & Food for Thought。後者については、大学では英語圏の文学と文化を担当していますから、仕事とも直結。この放浪の日々、仕事を再開する来年の春への充電期間でもあるようです。帰国はもう少し先のことですが、まずはそれまでの間、二つのゴハンを糸口とする徒然バナシを中心に、時々便りを送ります。違う風土や文化のもとでの暮らしの様子を伝えられればいいな、と思っています。12月にはまた少し旅をし、1月末にはカリブ海のジャマイカ、キングストンに拠点を移す予定。その時には、ここロンドンとはずいぶん違う空気のなかでの話をお届けできることでしょう。


そうそう、二つのゴハンといえば、ここUKでは食品と本は消費税の課税の対象外になっているのをご存じでしょうか。現在、VAT(Value Added Tax=付加価値税)というUKの消費税は17.5%。日本に比べると、とんでもなく高率ですが、体と頭のための滋養は、人が暮らし、次の世代が育っていくのに最低限必要なものと見なされ、課税から守られています。(もうひとつ、子供服にもVATはかかりません。)そもそも日本の消費税は世界のなかでもきわめて低率。消費税値上げ反対と、反射的に思う前に、何にどのように課税され、また税金がどのように使われるのかをよく考えてみないといけないのでしょう。(図は消費税の国際比較。画像をクリックすると大きくなりますので、数字見てみてください。)


それではUKが、パンのみでは生きてはいけないニンゲンという動物が暮らしやすい賢い社会かというと、そんなに理想的ではないのが現実。ご存じのとおり、今年5月に誕生した連立政権は、欧州最悪の財政赤字に取り組むために、未曾有の歳出削減計画を打ち出しています。一連の削減計画、反対派からは「無謀」、「残酷」、「戦後最大のギャンブル」と評され、消費税は来年1月には20%に。そんななかでも、二つのゴハンと子供服は課税から守られるようですが、大幅な歳出削減は市民生活のあらゆるところに影響を及ぼします。教育分野も例外でなく、大学の学費は最大現在のほぼ3倍になると見込まれています。11月11日には、ロンドンでの抗議デモに5万人の学生が集まりました。一部の学生たちが保守党本部のガラスを割って内部に乱入し、保守党本部の機能がマヒするという一幕もありました。明日24日には、二回目が予定されており、ロンドンの様々な大学の学生が授業をボイコットして、ウェストミンスターまでデモを行うそうです。わたしがここの学生だったら、間違いなく、今頃は明日のためのTシャツや看板作りに精出しているでしょう。


いきなり税金や抗議デモのハナシになってしまいましたが、さて、こちらはそろそろお昼。少しお腹がすいてきました。中華街で買ってきたヌードルでも作りましょう。と、冷蔵庫を開けたらちょっと匂います。消臭剤がいるみたい。'fridge freshener'とでもいうのかしら?(と、調べてみたらOKのよう)日常品の英単語、これがけっこう苦労します。あまりに日常的な単語であるだけに、ちょっと表現が違うと相手が一瞬とまどうのです。一昨日も、寝室用の整理箱が欲しくて、インテリアショップで「baskets and boxes for storageはどこ?」と聞いたら、お洒落な店員さん、一瞬、ぽかんとして、「おおstorage boxのことね。Lost in translationだわ!ごめんなさい。東京行きたいな」と笑っていました。Lost in Translation.ソフィア・コッポラ監督の東京を舞台にした映画です。7、8年前の作品だったでしょうか。英語圏のちょっとクールを自認する20代、30代にはいまだに人気があるようです。あの映画の中、新宿の街で、登場人物たち何食べていたかなあ、と思い出しながら、そして明日の大学構内はどんなだろう、と思いながら、今日はこのへんで。Cheers

 

「ホスピタリティを仕事に」


さる10月27日、連続講演会「仕事と暮らしのつくり方」第四回が開催されましたので、その模様をレポートしたいと思います。第四回は、第一ホテル両国の社長をなさっておいでの中田徹男さんに、ホテル業の魅力をたっぷり語っていただきました。

中田さんは本学ドイツ語学科の四期生なので、私たちの大先輩にあたります。在学中からホテル研究会を立ち上げ、ホテルの世界を知ろうと積極的だった中田さんですが、仲間と実習にと出かけて行った老舗ホテルで、あるショッキングな体験をしました。そのホテルで中田さんたちにあてがわれた仕事は「ランドリー」、つまり洗濯物を延々と洗いつづけるだけの仕事。しかもガレージ脇の裸電球一本の部屋での寝起き。

つらい思いをした中田さんは、「いつかは自分が総支配人になってやる!」と夢を抱きます。本学卒業後に第一ホテルに入社、ベルボーイやフロントなどのさまざまな職務を経験したうえで、2000年、第一ホテル両国の総支配人となって夢を実現させました。

ホテルの総支配人とはいわば現場の総監督のこと。おもてなし(=ホスピタリティ)の現場が大好きな中田さんだけあって、ホテルのサービスについて語るときにはとくに熱がこもります。中田さんによれば、ホテルのサービスとは、人が人にしてさしあげる「人的サービス」のこと。そのサービスに笑顔と言葉づかいと挨拶はもちろん必要ですが、それに加えて、お客様一人ひとり異なるニーズを察知したうえで、ニーズにぴったり見合ったサービスをさりげなく提供しなくてはなりません。そのためには絶えずアンテナを張り、勘を磨き、お客様の言葉から改善点を見つける努力が欠かせません。

学生時代の夢を実現させた中田さん。しばらく総支配人と社長の仕事を兼任していらっしゃいましたが、今年5月からは社長として経営一本に専念しておいでです。「これからの目標は?」との質問には、「人材を充実させたい。志の高い人を採りたいし、社員の能力をあげたい」とのこと。「採用する側は幹部候補生を採りたいんです。これからは男も女も関係ありません。面接では、仕事が好きだとアピールできることはもちろん、自分の目標をしっかり示してほしい」との明確なお言葉に、インタビュアーの2人もフロアーの聴衆も、深く頷いていました。

 

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