獨協大学英語教育研究会(DUETA)2012年度 第2回目講演会


去る216日土曜日に獨協大学英語教育研究会(通称DUETA)の今年度第2回目講演会を開催しました。この研究会は、英語教員を目指している学生と現職英語教員の交流を深めるために2001年に発足し、教職課程の「英語科教科教育法」という授業を担当している英語学科教員と本学科OB英語教員を中心に企画・運営しています。

今回は本学科を1985年に卒業された中野達也先生(都立白鷗高等学校付属中学校)をお招きし、「中学英語から高校英語への移行:音読・暗唱・暗写からその先へ」 と題した講演を行っていただきました。中野先生は、生徒さんの様子を動画で紹介しながら参加者も音読や暗唱を実際に体験するという参加型で行って下さいました。中野先生の軽妙なトークと豊富な経験に基づく大変興味深い講演となりました。会場案内の立て看板が倒れてしまうほどの春の嵐が吹き荒れた一日でしたが、学部生や近隣の中学校・高校の教員を中心に80名を超える方にご参加いただき、盛況のうちに終了しました。

中野先生を始めとし、本学科は埼玉県などの関東地方の中学校や高校の英語教員を多く輩出してきていることをみなさんはご存知でしょうか。多くのOBが教員として大学に戻ってきてDUETAに参加してくださっていて、教員を目指している学生にとっては大変よい刺激となっています。また、OBの方にとってもDUETAはどんどん新しくなっていくキャンパスを訪れて変化を感じるよい機会にもなっているそうです。知らないだけで皆さんの英語の先生も実は本学の卒業生かもしれませんね。

DUETAの活動にご関心のある方はこちらもどうぞご覧下さい。
http://www2.dokkyo.ac.jp/~else0001/

 

高校教科書再活用のすすめ ~受験生への小さな苦言と大きな提言~(3)

 其の三。これは大学の教師になってからの話。私の自宅のある地域は古い住民が多く、組、班といった単位での町内会組織が活発に機能しています。ある日、私は町内会の用事で最寄りの消防署に行きました。その時、消防署の掲示板に危険物取扱者試験の受験案内が貼ってあるのに目が止まりました。その瞬間、「其の二」で述べた私の化学への関心が再燃しました。今まで長い間、自分を文系人間と規定して生きてきましたが、その殻を破ってみよう。そのような思いが走り、高校の化学と物理の教科書を徹底的に学び直したのです。ちなみに、私の教科書は使い壊してしまったので、息子の教科書を「お下がり」ならぬ「お上がり」として使いました。その成果でしょうか、多くの技術系資格を取得することができました。乙種1類から乙種6類まで全ての類の危険物取扱者、甲種防火管理者、毒物劇物取扱者、甲種火薬類取扱保安責任者、エックス線作業主任者、ガンマ線透過写真撮影作業主任者、16ミリ映写機技術者、レーダー級海上特殊無線技士、第二級陸上特殊無線技士、第四級アマチュア無線技士、一級小型船舶操縦士・・・等々。もちろん、それぞれの資格専門のテキストや過去問集が出版されていますが、その内容のかなりの部分を高校の教科書でカバーすることができます。時々、自分の仕事に関係のない資格を取って何になるの?といった、批判ともとれるような質問を受けます。私はこう答えます。「その資格を職業にしている人たちの仕事を理解し、感謝するためです」と。しかし、資格を取る過程で勉強した知識が実際に役に立つことはたくさんあるのです。たとえば、毒物劇物取扱者。この資格を与えられるのは、私のような資格試験の合格者以外には、薬剤師の資格を持っている人と、大学等で応用化学を修めた人に限られます。当然、化学と物理の全般的な知識は言うに及ばず、毒物劇物取締法で毒物や劇物に指定されている個々の物質の性状や化学構造、保健衛生的見地からの法令による規制などを知悉しなければなりません。毒物・劇物はひとたび貯蔵、運搬、廃棄等の方法を誤れば、大規模な環境汚染や健康被害を招きかねません。環境の時代ともいわれる現代において、毒物・劇物を扱う事業者に限らず、環境を保護するための知識をこの資格を通じて身につけることは有益であると確信しています。私にたくさんのライセンスをプレゼントしてくれた高校の教科書に本当に感謝しています。

 其の四。私の家族は百人一首が大好きです。もちろんカルタ取りも楽しみますが、むしろ坊主めくりにハマっています。受験生の皆さんは「坊主めくり」という遊びをご存知ですか? 百人一首の読み札を裏返しに重ねて順番に1枚ずつめくり、姫の絵を引いたら場にある札を全部自分がもらい、坊主の絵を引いたら自分がそれまでに取った全部の札を場に放出しなければならないというルールで、最後に手元にある札の枚数を競うというものです。一瞬にして全部の札を失うスリルがあって、単純なゲームですがとても面白いですよ。どういうわけか、いつも私が坊主を引いて大負けするのです。たとえば、私が「蝉丸」の札を引くと、間髪入れずに「これやこの行も帰るも別れてはしるもしらぬも相坂の関」と家内や息子が吟じます。どうやら、ほぼ全首を諳んじているみたいです。私はまだ、特にお気に入りの数首しか諳んじられませんが。実は、家族それぞれが、百人一首を扱っている高校の時の古文の教科書や副読本を手元に置いていて、暇な時にとりとめもなく読み返すのを無上の楽しみにしているのです。こうして、お金もかからず遊べて、日本人としての教養も深まり、そして家族団欒のお供にもなっている、高校の教科書の価値を再発見した次第です。

 以上、筆(キーボード?)の勢いに任せて、長々と綴ってしまいました。最後まで読んで下さった皆さんには心からお礼を申し上げます。そして、書かれている内容はあくまでも私の個人的な見解であることを念のために申し添えます。

 この拙いブログ記事を契機として、1人でも多くの受験生や大学生が高校の勉強の価値を再認識し、入試科目ではないためにお蔵入りしてしまった高校の教科書に再び日の目を見せる機会がわずかでも増えたら、私にとって望外の幸せです。

 

高校教科書再活用のすすめ ~受験生への小さな苦言と大きな提言~ (2)


  ここまで書くと、きっと現役の受験生の皆さんから反論が起こると思います。現実に目前に入試が迫っている以上、入試科目の勉強だけに集中しなければならない、好きで入試科目以外の科目をすてているわけではない、この時期になってこんなブログを読んでも何の励みにもならない・・・などと。気持はよくわかります。私だって、この時期に慌てて入試科目以外の勉強を始めろ、などと受験生の皆さんに言うつもりは毛頭ありません。少数科目入試に起因する学力低下は国全体で取り組むべき教育制度の大問題であり、私のような一介の教師が悲憤慷慨したところで何の解決になりません。そこで、もし、これを読んで下さっている受験生の皆さんが不幸にも高校で入試科目以外の勉強を捨ててしまったとしたら、私は次のような提言をしたいと思います。

1.まずは、目前の入試を制して志望校に合格する。
2.めでたく大学に合格できたら、入学までの自由な時間や入学後の暇な時間に、入試科目以外の高校の教科書を「1冊の本」として、改めて通読する。
3.各科目の基本事項は、学部学科を問わず知っておかなければならない一般常識であると自覚し、徹底的に覚えなおす。
4.ニュースや報道の中で知らない事柄に出会ったら、すぐネットで「ググったり」せず、できるだけ高校の教科書から知識を得るように努める。
5.最後に、高校の勉強が実社会で役に立ち、面白いものだということを実体験できる機
会を積極的に見出す。

 私が以上のような提言をするのは、私自身が高校の勉強や高校の教科書が後からとても役立ち、かつ、面白いと思った機会をたくさん経験しているからです。手前味噌かもしれませんが、いくつか紹介したいと思います。

 其の一。私が初めて自分でお金を稼いだのは、大学1年の時に測量会社でアルバイトをした時です。朝早くから、作業服にヘルメットのいでたちで、ポールや三脚を抱えて、測量士といっしょにあちこちの作業現場を回りました。測量士がポール(「標尺」といいます)の目盛を読み取っている間、私はポールをまっすぐ水平に支えているのが仕事です。ポールには気泡管という装置が取り付けてあって、中の気泡が真ん中にくるように支えるのですが、これが案外難しい。特に風の強い日はどうしても左右に大きく揺らぎ、何度も「こら、しっかり持ってろ!」と怒鳴られました。読み取りがうまくいくと、測量士は手早く手帳サイズのフィールド・ノートに何やら数値を書き込み、夕方会社に帰ってから複雑な計算をするのです。ある日、作業中の測量士の書類を盗み見たら、sincostan・・・と、高校の数学でさんざん苦労させられた、「例の記号」のオンパレードではありませんか! そうです、測量は三角関数の応用なのです。測量しようとする区域をいくつもの三角形で網のように区分していき、各三角形の内角と1辺(「基線」といいます)の長さを測定します。これらの測定値を用いて、次から次へと計算を拡大していく。当然、正弦定理や余弦定理が必要になります。あまり三角関数の知識を身につけていなかった私は、これを契機に数学の教科書を読みなおし、測量の原理を理解しました。そして、机上の学問と軽視気味であった数学が、国土開発や建設の基礎となる重要な分野に活用されていることを知り、感動するとともに、数学が面白くなりました。

 其の二。大学を卒業して、私は理化学機器のメーカーに就職しました。実は、就活に失敗して大変な目にあったのですが、ここでは触れないことにします。その会社で、私は主に輸出と海外の市場開発を担当していました。営業系社員ではあっても、理化学機器を扱っている以上、技術的なことがまったくわからなければ顧客に商品の説明もできません。しかも一応は海外要員なので、外国の技術者をアテンドしたり国際見本市(trade fair)の自社ブースで来客に応対したりする機会が多く、下手な英語で技術的な話題についていかなければならないのです。もちろん、会社では一定期間工場実習などもあり、製造販売している製品のイロハは覚えさせられます。しかし、技術系社員には遠く及びません。何しろ知識のバックグラウンドが違いますし、製品への向き合い方が全然違うのです。それでも私は私なりに、取り扱う製品に興味や愛着はもっていました。中でも最も思い出が深いのは、大規模な純水製造装置(distillation apparatus)です。医薬品や半導体の製造など工業目的にも、医療や教育の現場にも、そして飲料水に恵まれない地域の人たちのためにも、大きな貢献のできるすぐれものです。水を浄化する方法として、活性炭フィルターによる濾過は誰もがご存じだと思います。しかし、これとは別に、あるいはこれと組み合わせて、イオン交換樹脂や逆浸透膜(reverse osmosis; RO)を用いると、より純度の高い水が産出できます。さらに紫外線滅菌ランプで滅菌すれば万全です。この当時の私は、イオン交換と逆浸透膜の原理がわからなかった、というより、知らなかった。そこで高校の化学の教科書に救いを求めたところ、私が仕事で必要とする以上の詳細な説明が書かれていました。高校時代に宝物に気づかぬまま、通り過ぎてしまったようです。以来、私は化学が大好きになりました。

 

高校教科書再活用のすすめ ~受験生への小さな苦言と大きな提言~ (1)


 今年もいよいよ入試のシーズンが到来しましたね。昨年、試験問題の配布ミスなどで大きく混乱した大学入試センター試験でしたが、今年は概ね無事に終了し、これから多くの私立大学の入試や国公立大学の二次試験の火蓋が切られます。寒さがますます厳しさを増す時期でもありますので、受験生の皆さんは健康管理にいっそう留意して、ふだんの実力を惜しみなく発揮してほしいと願っています。

 さて、現在の日本の大学、特に私立大学には、実にさまざまなパターンの入試が存在します。バラエティに富んだ受験生に門戸を開くという点でメリットも大きい反面、いわゆる「1科目入試」をはじめとして、少数科目入試(=入試科目の軽量化)が受験生、ひいては大学生の基礎学力の深刻な低下を招いているという厳しい指摘もあります。実は、かく言う私も、若者の基礎学力の低下を憂え、憤り、何とかならないものかと日々考えをめぐらしている一人なのです。今、この時期に、このブログを読んで下さる受験生には少々耳(目?)が痛い苦言を敢えて書きますが、その後で自分の経験談も紹介しつつ、ためになる(と、自負している)アドバイスも書きますので、最後まで読み通してくれたら嬉しく思います。

 今から14年前の1999年に、『分数ができない大学生』(東洋経済新報社)という本が出版され、話題になったことがあります。3人の編者が名を連ねているのですが、彼らは日本数学会のメンバーで、大学の数学教育の抱える問題を検討してきた先生がたです。この本の帯に書かれている「信じられないでしょうが、大学生の10人のうち2人は小学生の算数ができません。」というショッキングな言葉が、ひときわ目を引きます。私は、この本を読んだ当初、どうせ販売戦略のために針小棒大に内容を誇張した本だろうと高をくくっていました。そして、ものは試しと、編者たちが調査で使用したという簡単な(少なくとも私には)問題を当時の身近な学生数人に解いてもらいました。問題の内容は、分数同士の割り算、四則演算が混ざった整数の計算、一次方程式、二次方程式、平方根の計算などです。結果は・・・。私は絶句し、この本が決して嘘を言っていないことがわかりました。いくら英語学科の学生だからといって、それはないだろう! ひょっとして・・・と思い、次の機会には、高校で学んだはず(だと、私が考える)の他の科目(古文、漢文、世界史、日本史、地理、政済、倫理、物理、化学、生物など)のごく基本的な、「一般常識レベル」の問題をまとめて、やはり身近な学生に解かせてみました。数学の問題と同様に惨憺たる結果で、私は頭を抱えてしました。おそるおそる学生たちに理由を尋ねてみると、①高校でコースの特性上、特定の科目の授業自体がなかった、②授業はあったが入試科目ではないので自ら勉強を捨ててしまった、という2つの答えが返ってきました。この瞬間、私は上記の本の編者たちの思いに心から共感することができたのです。そして、それ以来、大切なゼミ生を選考する時には、上記②に該当する学生にはご遠慮いただこうと、英語以外の高卒レベルの学力と知識を詳しくチェックすることにしています。

 実は、私が実際に入学した慶応義塾大学文学部の入試も外国語1科目と社会科1科目の計2科目のみであったと記憶しています。が、私の卒業した高校というのが旧制中学を前身とする古い伝統校で、文系・理系のコース分けと若干のカリキュラム構成の違いはありましたが、基本的には「全科目主義」を厳しく徹底していました。国立文系を志望していた私ですが、理科は物理、化学、生物の3科目を履修しましたし、数学は一時「数学Ⅲ」まで習わされた?苦い思い出があります。功利打算に陥ることなく、大学の入試科目に引きずられない毅然とした意思を貫いていました。40年近い歳月が流れましたが、OBとして、今もそうであってほしいと願うばかりです。要するに、入試は入試、高校の勉強は高校の勉強なのです。それを履き違えてはいけないのです。入試のために高校の勉強を犠牲にすると、長い目で見ると大きな損失になります。かけがえのない大切な宝物を目先の利益のために捨ててしまうようなものです。確かに、私の高校での成績は英語以外あまり芳しくありませんでしたが、後述するように「全科目主義」の教育を受けて本当によかったと、今つくづく実感しています。

(つづく)

 

Languages, Tygers, and Extinctions



Close your eyes. Now imagine that you are chatting with a friend. You are chatting about simple things, about a mutual acquaintance that you saw the day before or about a special holiday with your family. The words come easily to you, not singly, but in graceful phrases, in concert with your breathing, with your smiles, your laughter. Your emotions, your speech, and the meanings that you share with your friend are like music or dance, perfectly harmonized, inseparable and indivisible. Your speech is as natural and fluid as breathing itself. The language you speak, your mother tongue, is indeed every much a part of you as is your own mother and your own tongue!

How would you feel, then, knowing that you were the very last living speaker of your language?

It is not easy for me to imagine how I would feel as the last speaker of English, my mother tongue. Certainly I would feel a deep sense of loss and despair, both personally and in terms of the larger picture—the loss of centuries of cultural know-how and folk wisdom, the loss of the vast literature (Shakespeare would never again be performed in English!). But the very idea seems so far from reality, so abstract.

And yet, thousands of individuals across the planet are today facing this tragic eventuality. For these people, the proposition is not abstract. It is reality. Here are but two examples taken from recent press reports in January 2013: The last surviving speaker of Kusunda, a language of Nepal, Gyani Maiya Sen (pictured to the left) spoke about her situation.1 Now aged 76, she laments the passing of her language. “How can I forget the language I grew up learning? I used to speak it when I was a child. Even now, I wish I could talk to someone who understands my language." Sen was speaking in Nepali, not her mother tongue. In another part of the world, Taiwanese linguist Sung Li-may is working with one of the last Kanakanavu speakers in an effort to document this language before it dies.2 Her 80-year old speaker-informant (Mu'u Ka'angena, pictured below) exclaimed, "Every day I think: Can our language be passed down to the next generation? It is the deepest wish in my heart that it can be."

Several hundred languages are presently faced with certain extinction, and a further three thousand languages are likely to disappear within this century. Scholars agree that at a minimum, half of the present-day languages will not survive into the next century. In the most recent instance of imminent extinction, the oldest speaker of a the N/uu language died just three weeks ago on January 7th.3 Akeni Kassi was one of the three remaining speakers of this language of the Khomani people who had thrived for generations in the Kalahari desert, the Khomani homeland.

Why should we care? To me, the loss of a language is just as tragic and senseless as the loss of a biological species. We may soon live in a world without leopards, tigers, and cheetahs, without gorillas and rhinoceroses—these are all critically endangered mammals. Inspired by the tiger, the great 18th century poet and artist William Blake penned The Tyger which begins:

Tyger! Tyger! burning bright
In the forests of the night,
What immortal hand or eye
Could frame thy fearful symmetry?

William Blake asks us to consider the powers that could have created this magnificent creature. In the same way that nature’s potency manifests its creative powers in a creature such as a tiger, humans demonstrate with every generation the depths and breadths of their creative potential in the inventiveness of their languages. Ultimately, the same potent “hand or eye” that inspired Blake’s The Tyger also brought forth the glorious diversity of human speech forms—these dynamic and variegated solutions to human life on this earth.

Just as on the days the news reports that yet another biological species has passed into oblivion, on the days the last speaker of a language passes on, our world is in significant ways diminished and impoverished. Someone once said that ‘Language is cultural DNA,’ and there is a lot of truth in this. A language embodies the way of life of a people. Their perspectives on the environment and the spiritual world, their social relationships, their beliefs and values are, in a very real sense, encoded within their expressions, and their vocabulary and grammar. A language represents the accumulated wisdom of generations, one possible peak of human creativity and invention in a forest of alpine peaks. So the loss of a language is not only an individual and personal loss for the many last speakers, it represents a loss to the whole of humanity. And not to care about the mass extinction of languages represents a deeply troubling failure in the human imagination.

The reasons for language endangerment and extinction are complex and cannot be addressed with any one solution or approach. Avoiding the difficult questions and issues, some writers have explained that languages die because all the speakers simply grew old and died, or that the speakers have, over time, abandoned their language in favor of another language that offered greater opportunities for education and employment, or that, in a cynical Darwinian turn, the disappearing language was somehow less ‘fit’ and failed to adapt to changing circumstances.4 But these explanations are disingenuous and ignore the outright cutting down of a people or the successive marginalizations of the speakers of these languages. They avoid addressing the power differentials existing between speakers of different languages that overwhelmingly account for the vast majority of language extinctions. Languages are indeed natural products, but we should never forget that, at the same time, languages are also products of history that have been forged in the furnaces of environmental, social, and political conflict and contingency.

People ask, What can be done? There are some things that we, as individuals, can do right away—actions and attitudes that we can adopt that will contribute to more positive outcomes for small languages in the years ahead. Become aware of the great diversity of human languages across the planet and take note when you hear about the extinction of a language. Consider in each case what the underlying causes are for the loss and further consider what steps might be taken that other languages can avoid the same fate.  Encourage multilingual solutions in circumstances where governments or institutions are pressuring a people to abandon their mother tongue. And always, without exception, support a people’s right to speak their own language in private and in public, to pass on their language to their children, and to have their language used as a medium of instruction in education.

Notes
1  Last of Nepal’s Kusunda mourns loss of dying language. http://www.google.com/hostednews/afp/article/ALeqM5gFBmr9THN1RO4sxLUvH_Uxt0kNvw?docId=CNG.8e2278b1b59c3f4139dd3762f3d8ff89.6b1&index=2
2  Taiwanese Linguist Races To Save Dying Language. http://www.usatoday.com/story/news/world/2013/01/09/taiwan-language-kanakanavu-linguistics/1819613/
3  Speaker of Oldest San Language Dies
 http://www.iol.co.za/capetimes/speaker-of-oldest-san-language-dies-1.1454601
4  See for example: Let Them Die, by Kevin Malik, Prospect magazine, (November 2000); Fading Species and Dying Tongues: When the Two Part Ways, by David Berreby, New York Times, May 23, 2003.

 

Build Your Own Bridges


On a recent visit to New York City my family and I walked across the Brooklyn Bridge, the famous New York City landmark, which stretches across the East River.   We shared the crowded walkway with people speaking languages from all over the world.  Despite the diverse regions and languages we all hailed from, we were all either coming from, or going to, one of two possible directions; Brooklyn or Manhattan.   Until the completion of the Brooklyn Bridge in 1833, the longest bridge at the time and one of the first steel cable suspension bridges ever designed, the two boroughs of Manhattan and Brooklyn may as well have been located in two separate states, rather than two areas of the same city.  The completion of this engineering masterpiece drastically altered the relationship between these very different areas of New York City by making it possible for individuals to cross over to the other side and meet their neighbors across the river. 

            As I walked across this majestic bridge, peering at the royal blue sky through the crisscrossed cable lines I found myself thinking about the symbolism of bridges as they span space and connect both the landmass and people to each other, forever changing both.  Bridges allow us to crossover to new and different locations, meet people and experience life, ‘on the other side’ that could only have been imagined from a distant view.  No matter the outcome, crossing a bridge always leads to an encounter with the ‘other side’ equally.  Regardless of the side you cross over from, both sides have equal access to other; it is up to the one who crosses, and is greeted on the other side, to open up and welcome the other, if the outcome is to be positive and fruitful.  

            “Forging physical connections between different areas is a powerful and practical way to bring people together.  These connections come to symbolize unity and friendship, bridging geographical divides between different societies and cultures” (Pearce & Jobson, 2002, p.8).   Bridges provide a useful metaphor for cross-cultural encounters and the metaphor of ‘bridging difference’, or かけはし, has been very important in both  my own work, and the work of the public school educators in the elementary school where I conducted research in 2009-2010.  In this small school, south of Nagoya, two educators in particular, were guided by this bridging metaphor to create a welcoming and inclusive learning environment for the 83 Japanese-Brazilian students who attended the small, rural elementary school and lived in the nearby danchi.  The principal believed very strongly in finding ways to bridge the cultural and language gap that had caused tension and animosity between the native Japanese and Japanese-Brazilian families who had moved into the area.  For him, crossing over to those who are different to discover what we have in common, rather than dwell on the differences that divide us, is the only way to open up to, and begin building relationships with those we see from a distance, from our side of the bridge, so to speak.  

            かけはし, was not simply a term that he used to describe what he was doing in the many interviews I had with him, but was a very real and important part of his practice as an educator and in his life as a private individual.  He saw himself as a bridge-builder, who could reach across to the two communities and bring them closer together, so that they could meet face-to-face and better understand each other.  Through a series of events and special festivals the community did begin to meet each other half way and began to see each other in positive, rather than negative ways.  The children and families of the school and the teachers and children in the classrooms took steps toward each other and began the journey across the bridge of difference that had once divided them.



            We will always encounter difference in our lives: cultural differences, linguistic differences, gender differences, age differences, religious differences, regional differences...the list can go on and on.  We can also choose to stand on the other side of that difference, like standing on the bank of one side of a bridge, and gaze upon it from a distance, never really seeking to come face-to-face with it.  Or we can take that first of many steps that will bring us to the other side, where the face of difference becomes much clearer and maybe even familiar.  In fact, by crossing over and greeting those who appear so different from one end of the ‘bridge’ we may discover that they are not all that different after all.  One can never cross a bridge without first building it, and then taking that first step to the other side.


Reference
Pearce, M. & Jobson, R. (2002). Bridge builders. West Sussex: Wiley-Academy

 

Japanese Art Viewing in Kanto: The Envy of the World

  • Kakitsubata-zu 燕子花図 (Irises) by Ogata Kōrin 尾形光琳 (1658-1716)  
  • Karajishi-zu 唐獅子図 (Chinese Lions) by Kanō Eitoku 狩野永徳 (1543-1590)  
  • Dōshoku sai-e 動植綵絵 (Colorful Realm of Living Beings) by Itō Jakuchū 伊藤若冲 (1716-1800) 
  • Yukimatsu-zu 雪松図 (Pine Trees in the Snow) by Maruyama Ōkyo 円山応挙 (1733-1795)  
  • Matsutaka-zu 松鷹図 (Hawk and Pine) by Soga Shōhaku 曽我蕭白 (1730-1781)


Imagine you were a scholar of Japanese art and had never viewed the paintings listed above. You had viewed them regularly in photographs and books but had never seen the actual, original works with your own eyes. Imagine the time and expense involved in flying to Japan to view the paintings as a requirement of your research, as a scholar from New York for example. Imagine how many times you'd have to fly, as they could never be viewed all at once at a single museum. For Japanese art enthusiasts of the Kanto area however, no such difficulties exist. Every single one of the paintings listed above has appeared on display at one or another museum in the Kanto area over the past three years.

The "Irises" folding screen painting by Ogata Kōrin for example is exhibited almost annually at the Nezu Museum in Minami-Aoyama, and was last displayed in May of this year. Both the "Chinese Lions" folding screen painting by Kanō Eitoku and the thirty-scroll "Colorful Realm of Living Beings" series by Itō Jakuchū are owned by the Imperial Household Agency and were featured in exhibition at the Tokyo National Museum in November 2009. "Pine Trees in the Snow," a pair of folding-screen paintings by Maruyama Ōkyo, are owned by the Mitsui Memorial Museum in Nihonbashi, and were last displayed in November 2010. And finally, at the Chiba City Museum of Art, a set of five sliding door panels by Soga Shōhaku, "Hawk and Pine," was part of an exhibition that took place this last April.

This is not a simple smattering of assorted paintings. These are all highly-treasured, internationally recognized masterpieces of Japanese art. Two are national treasures! (Two additional works from the list would receive the same designation if they were not owned by the Imperial Household Agency, which is exempt from this system of registration.) Imagine, if it helps, the Mona Lisa (c. 1503–1519) by Leonardo da Vinci at the Louvre Museum in Paris, or The Night Watch (1642) by Rembrandt at the Rijksmuseum in Amsterdam. How fortunate we are to have paintings of this same high distinction, here, at home, in Kanto.

Another remarkable feature of these paintings; all have been viewed, directly in exhibition, by students of the my 英語専門講読 class!

Subtitled "Japanese Art and Culture," this unique class within the Department of English focuses on the history and culture of Japanese art, with particular attention given to Edo-period painting. Each semester, after a thorough investigation of a selected artist's background, characteristic painting style and works, the class complements or rather "enhances" its studies with a research excursion to a corresponding museum exhibition. All four poster images appearing on this blog in fact represent exhibitions attended by the class. Yes, how indeed fortunate we are to be in the Kanto area, the envy of every Japanese art enthusiast around the world!

 

獨協大学英語学科の公式ブログへようこそ!

このブログでは,英語学科の教員が授業のこと,校務のこと,研究のこと,プライベートのことなどを書き綴ります.お楽しみください.

英語学科HPへ

Blogger Templates by Blog Forum